スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

アイスバケツレクイエム(チャレンジ) 

本日、岩国市の錦帯橋のにてアイスバケツチャレンジ(レクイエム)を行いました。

1380803_696411103745609_4494990186470593253_n.jpg

私は今月の8月7日に母親をALS筋委縮性側索硬化症にて亡くしておりますので、チャレンジというよりレクイエムとあえて言わさせていただいています。
母親がALSで亡くなった直後、奇しくもアメリカでALSキャンペーンが始まったことは、私にとって複雑な思いでした。

しかしながら、この病気のことを理解して頂くには大変重要なことだと感じ、ビルゲイツが氷水をかぶった直後、facebookやTwitterに是非私を指名してくださいと言い続けていました。

そして続けざまに株式会社コスモピア代表取締役の田子みどりさん、ピー・シー・エー株式会社専務取締役の折登泰樹さん、そしてラテン歌手の八木啓代さんからご指名を受けました。

アイスバケツチャレンジには最近はいろいろな意見も出ていますが、私は身近に母親の死にざまを見て、ぜひ理解をいただきたい病気だと思っています。

ALSは難病ですが、ただの難病ではなくまだ今の医学では治療法のない薬もない病気です。筋肉が徐々に衰えていくだけでなく、最後は肺の呼吸をする筋肉まで衰え呼吸ができなくなり死んでいく病気です。私の母に与えられた治療法はビタミン剤と神経の再生を促す薬と胃薬だけです。

なんの根本的な治療もおこなわれず12月にALSを診断され、非常に進行が早く8月に亡くなっています。

人工呼吸器や胃瘻によって延命することは可能ですが、私の母は、人工呼吸器も胃瘻も拒絶し、信念をもって亡くなりました。

このキャンペーンによって多くの方々にALSを知っていただき、そして少しでも治療法や予防法が見つかってほしいと願っています。

私からのご指名は、私の古くからの友人の松本浩一さんと、
柳井市長の井原健太郎さん、
東京都議会議員の塩村文夏さんにお願いしました。

もう既に多くの方々にALSを知って頂くことはできましたが、これからも早期に治療法が見つかることを望んでいます。

https://www.youtube.com/watch?v=_mArpi198vs
スポンサーサイト

ALSという病気について 

ALSという病気について

ALS(筋萎縮性側索硬化症)にて私の母は今年の8月亡くなりました。

亡くなって直後、アメリカでは、このALSを支援していくアイスバケツチャレンジという氷水を頭からかぶりALSという病気を認知させ、治療法を確立させようという運動がスタートしました。
私にとってはなんというタイミング、もう少し早く認知されていればよかったのにという、少し歯痒い運動ではありましたが、母親のALSをみじかに見てきた立場としては、母親が亡くなった後だとしても、支援して行きたいと言う気持ちは変わりません。
早速、周りの人々にやりたいという話を持ちかけ、指名の順番を待ち続けています。
日に日に国内でもチャレンジする人が増え、支援の輪が広がっていきます。しかしながら、それらをやる意味についての疑問を投げかける人達も増えてきました。
ALSだけになぜ?という疑問も聞かれるようになりました。私は他の難病を詳しく知っている訳ではありませんので、それについては申し訳なく感じています。

ただ、お話したいのは、ALSという病気はとても重たい病気であるということ、今だ病気の原因はわかっておらず、解決法も薬もなく、何も手立てが出来ず、ただ、ただ、体の機能が衰えていくのを待つだけの病気であること。
私の母は、病気を宣言されて、そのあとは対した治療も受けられず、出された薬はビタミン剤だけ、毎回病院に通っても、進行状況を調べるだけの、なんの治療と言えない処置でした。病気の治療法が無い以上仕方のない事だとは思います。しかし何もでだてが打てないもどかしさは、日々家族のストレスとして蓄積していきました。
ALSは、ただの難病ではなく、治療法がなく、かかるとただ死を待つだけのとても辛い病気です。
最近ではパフォーマンスとして、アイスバケツチャレンジをしている方々も多いかもしれませんが、私にとっては、この病気を知ってもらうこと、そしてこの病気の原因、治療方法を確立してもらいたいという一心でこの運動を支援しています。
私の母親は、最後は呼吸するための筋肉も衰えて、呼吸が困難になり亡くなりました。医者からは人工呼吸器、胃瘻の勧めを何度もされましたが、そこまでの処置を拒否し、延命処置を断り続けました。
この病気は人工呼吸器と胃瘻の処置をすれば、少しは生き延びられます。患者には拒否する患者と延命を望む患者に分かれます。
私は、この病気の根本的な原因追求と根本的な病気の治療法の解決に、集められた寄付金が機能し、早期にこの病気の解決が進むことを願ってます。
ALSという病気の理解が進み皆さんがこの病気を考えていただける機会がもてたアイスバケツチャレンジを一時的なブームで終わるかもしれませんが私は応援していきたいと思っています。

POS CAFE オープン 

POS CAFE プレオープン

少し報告が遅くなったが、
山口県岩国市のビジコム岩国事務所の1F、2FにPOSCAFEを12/15にプレオープンした。

POS CAFEは1Fが約40席、2回の会議室には約30名程度の収容が可能で
今のところコーヒー等の飲み物とベーグルがおいてある。
プレオープンとしたのは、営業時間もメニューもまだ100%でないため。

1月の後半に向けて本格的なメニュー、営業時間の設定を考えている















紹介記事 

地元、岩国の新聞、「日刊いわくに」の一面で紹介された。
少し照れるが、なかなかいい記事に仕上げてくれている。

ある人に言われた。
「今も昔も変わってないじゃん。」

随分自分では大人になったと思ってたのだが、そうかもしれない。



3.11大震災より10日目 

3.11大震災より10日目

2011年3月11日に起きた東日本大震災、
あまりのも大きな被害のため、言葉に詰まる。

地震、および津波にのために大変多くの方々が犠牲となり、
そして今も大変多くの方々が被災地で苦労をされており、
心から追悼、そしてお見舞いを申し上げたいと思う。
そしてこれからも続く福島原発の事故は、
これからも多くの人々を苦しめると思うと無念に思う。

今回の震災地域、福島、宮城、青森、茨城、千葉湾岸で被災したビジコムのPOSシステムを使っていただいていたお店は数百店舗あるが、津波による沿岸被災地域に限定すると想定で21店舗、そのうちお店が流されたと連絡をくれたお店が5店舗ほどである。
連絡をいただいたお店はお店は流されているものの人命は無事であることが確認取れて少しホッとしたが、連絡の無いお店は、あえて私どもに連絡をする暇も無いのかもしれないが心配である。

なかには千葉県旭市の薬局のように津波の被害はうけたが、お店は残っており再開したいとの連絡を受けた。再開の際は、私どもでできる限りの支援をしたいと思っている。

幸い、当社は多少の什器の破損や、通勤難民で通勤困難な社員はいるものの、先週一週間あまりにも普通なのでびっくりしている。
普段1時間でこれる社員が3時間かかって来たり、サポートも普段どおりにできたり、開発メンバーも全員が出勤し予定通りにスケジュールをこなしている。営業は大阪支店は何事も無く営業活動をしているが、さすがに東京営業はすでに予定のあったスケジュールをこなすだけで、こちらからは連絡を取りづらく手持ちぶたさのようである。

他社からは、お見舞いの広告記事を載せてそれを義援金として寄付しませんか?とか、いろいろな提案を受けたりしている。
しかし義援金という目的の定まらないお金よりも、当社のシステムを利用されている普段から接してお世話になっている被害にあわれた身内のお店様に直接何らかの支援をさせていただきたいと思っている。

この一週間ちょっと、あまりの事態の急変に、ブログも展示会リテールテックの明るい記事を最後にするのではなく、早く更新しなくてはと思ってはいたが、事態のめまぐるしい展開に会社も二転三転せざる終えなくなっている。

地震→津波→原発事故→放射能漏れ→無計画停電→交通手段運休→社員の安全確保、等々

地震や津波による災害はそれだけでも尋常ではない規模であるのに、そこに原発事故が重なるととんでもない。今はまだあまり語るべきではないのかもしれないが、これによりまた多くの人々の経済基盤が失われ、放射能による汚染、人命の危機が起きると思うといたたまれない気がする。そしてテレビや新聞で繰り返される「健康には問題の無いレベルです」何を根拠にそういう言葉を発しているのかわからないが、ちゃんとした情報の提供をしない大本営発表化している。

山口県の父親に電話をすると、安直な答えが返ってくる「そんなに心配することは無い、もうだいぶ収まったんじゃないの?」田舎はNHKニュースと朝日新聞だけの情報源でなにも根拠のある情報が得られない。今は正確な情報を与えて個人が判断すべきなのにその情報すら与えられない。

幸い、東京は多少ガソリンスタンドに車が並んだり、一時期的に水やカップラーメンが店頭から消えたりするが、多少困る程度で貧困ではない。しかし今後とも計画停電や通勤難民が出続け、そして緩やかな放射能汚染が蔓延すれば、東京自体も緩やかにメルトダウンせざる終えない環境になっていく気がしている。

私は常々言い続けていることではあるが、他人の支援するにはまず自分たちが健全でなければ何もできない。企業が通勤難民や無計画停電で経済活動を止められててしまえば、何も支援することができなくなる。そのため、一歩一歩着実に何をするべきなのかを考えている。

私事ではあるが、株式会社ビジコムは1986年3月21日が創業日で今日で25年目を迎えた。
本来であればこのこともちゃんとしたブログにしたためたいとも思っていたが、この時勢、追記程度に留めておきたいと思う。

今は維新、戦後に匹敵する変動期、私自身の25年目の節目にいろいろと考えなくてはいけない時期に差し掛かってるんだと実感している。


-------------------------------------------
『2011.03.11の記録』

私自身は3.11の日、東京ビックサイトで展示会リテールテックの4日目の最終日、前日までの3日間、お客様の反応がよかったため絶好調で、そして4日目の3時頃に起きた地震で一気に様相が変わった。

長く大きく揺れた地震はビックサイトの高い天井から鉄板が落ち、即席作りの展示機材は幸い大きく崩れることはなかったもののかなり揺れた。
二度目の大きな地震の後、展示会は開催中止となり、
津波の情報が入ってきたため、海辺のビックサイトは危ないと避難指示、何の情報も入らず、携帯のワンセグを見て震源は東北仙台沖、津波が押し寄せてることを知る。

しばらく、ビックサイトの2階に避難していたが、
すべての交通機関がとまってしまい、お台場は陸の孤島、
主催者から何の指示も出ず、機材をそのまま放置して帰るわけにも行かず、「人命優先、何かあれば機材は放置して逃げよ」との指示を出し撤収を始める。

会社も心配であったが携帯が通じず、唯一iphoneのスカイプのチャットにて連絡が取れ様子を知ることができた。会社は8階のため大きく長く揺れ二段重ねのガラスのラックが倒れ割れたとのこと、幸いそのガラスのラックが倒れた場所にいつも座っている社員はは展示会に来てたため難を逃れた。

二時間くらい経ったあと、会社の様子、津波の様子などの情報が集まり始め、不安に思い始めた女子社員たちがパニくりはじめた。泣き叫ぶ女子社員やすでに徒歩で逃げて連絡つかない女子社員、男性社員は会場で撤収作業をしていたが、女子社員だけでも早く引き上げさせたほうがいいということになり、展示会最終日のため車で来てた私は女子社員3名を乗せて会社に向かった。

ちなみに残った男性社員、十数名は一台の会社の車フィットと荷物を運ぶ2トンのレンタカーでビックサイトから引き上げた。交通機関が麻痺してたため徒歩で帰ってくるよりも適切な判断だと思うが、2トントラックは大渋滞に巻き込まれ約6時間も会社までにかかったという。

翌日開く予定であった東京、大阪合同の全社営業会議は地震直後に即中止した。そのため大阪から展示会に参加していたメンバーは翌日早めの新幹線で大阪に帰っていった。あのまま大阪メンバーが東京に取り残されるとそれはそれで心配が増えることになるので早めの帰郷で安心した。

7時ごろ私は脇道を抜けて順当に会社に戻ってきたが、社内はまだざわついていた。ガラスのラックが倒れてきたこと、かなり大きく波打ってビルが揺れたこと(船酔いのようになると)、すべての交通機関が止まっているため帰宅手段が無いこと。エレベータが止まっており会社の前の道路はすでに徒歩で帰宅する人たちで溢れていた。

すでに帰る手段を無くした社員もいたが、比較的近場に住んでいる社員(板橋、中野、練馬など)のために何度か車で江戸川橋から池袋、高田馬場へ送っていった。最初は池袋から少しでも外側に送っていこうと思っていたが、池袋だと山手線を越えるビックリガード、六つ又交差点が大渋滞しており、目白街道、新目白街道、高田馬場までもが大渋滞であった。そのため諦めて池袋にて社員をおろし会社に戻った。その社員たちはその後1~2時間ほどで徒歩で家に着いたという。

二度ほど社員を送り届けて夜の12時ごろ私も自宅に戻り会社に連絡を入れると、まだ2トントラックが会社に戻ってきていないという。あわててまた会社に戻ると夜中の一時ごろやっと会社に到着していた。


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。