浅野恭右先生、現れる⑤
パソコンPOS回想録⑤(1995~6年)
パソコンPOSセンターを開いてて、悩み事も多かったが、悪いことばかりではなかった。
1995年、突如、財団法人流通コード開発センターの常務理事、浅野恭右氏が同じ法人の関川氏と共にPOSセンターにやってきた。
浅野氏は「バーコードの父」と呼ばれるほど、流通関係者には著名人で、今の流通で使用されるJANバーコードの基礎を作り上げた人である。
そのため、この人がいなければ今の流通のPOS業界は存在し得なかった。
私は数年前から五反田TOCの流通コード開発センターに何度が通ってはいたのだが、なかなか直接じかにゆっくり話す機会などありえなかった。そのためできればいつかゆっくり話してみたいと思っていた先生のような人であった。
その浅野先生が、突如POSセンターを訪ねてきてくれてたのである。2時間ぐらい話をしてて、今となってはどんな話をしていたのかさっぱり覚えていないが、浅野先生曰く、「いやー、こんなセンターやりたかったなー」、「もうちょっと落ち着いたら同じようなことやりたいなー」、と、すごく納得していただいた様子でしきりにPOSセンターを誉めて頂いたのを覚えている。
なんでそれほど浅野先生がPOSセンターをやりたかったのか、羨ましがったのかは、今となっては聞くことも出来ないが、多分自分のやってきたバーコードの集大成として、POSを並べたショールームをやってみたかったのではないかと思う。
私にとってみれば大先輩であり、憧れの人であり、その人と身近に話が出来て、そしてその人に羨ましがられ、誉めていただいた。
このことは、その当時POSセンターをオープンしてよかったなと実感し、今でも一番の印象として残ってる。
その後、浅野先生に会う機会はそれほどは無かったが、何かと気に留めていただいて、息子のようにかわいがって頂いた。何か新しい発見や、気にかかることがあると、すぐにFAXで要件が送られてきて、こんなことをやってみたら、とか意見、感想を求められた。
彼はなんでもFAXを送る達人で、たくさんのFAXが送られてきた。
しかし、翌年1996年5月、一通のFAXが会社に届いた。浅野先生が富士吉田で亡くなったという訃報のFAXだった。58歳だった。私は知り合った機会に先生とやっと色々な話が出来ると思っていたし、またゆっくりと先生と話したいと思っていた矢先の出来事だった。
私とPOSセンター所長の勝俣は、足立の葬儀場に向かった。浅野先生ほどの葬儀なので流通関係の何百人というありとあらゆる人が参列を行った。
その死があまりにも突然で、早すぎたからであろうか?
葬儀場は、あまりにも小さな100人も入ればいいような団地の中の小さな公民館、外には200m以上の弔問の列が出来て、流通、コンピュータメーカ等、様々な蒼々たるメンバーが列をなしていた。その列は、先生の人徳を再度認識させられるものであった。
浅野先生がもっと長く生きていたら、私は何であの時あれほど、私どものようなPOSセンターを羨ましがり、やりたがったのか?答えを聞きたかった。しかしその答えは、いずれ浅野先生の年になればわかるのではないかと思ってる。
浅野先生が羨ましがるようなことを自分たちはやってるんだ。先生は私に大きな自信を与えてくれた。
浅野恭右氏の業績は、「バーコードへの挑戦」というタイトルで日本経済評論社から出版された。
バーコードへの挑戦―浅野恭右とその時代
パソコンPOSセンターを開いてて、悩み事も多かったが、悪いことばかりではなかった。
1995年、突如、財団法人流通コード開発センターの常務理事、浅野恭右氏が同じ法人の関川氏と共にPOSセンターにやってきた。
浅野氏は「バーコードの父」と呼ばれるほど、流通関係者には著名人で、今の流通で使用されるJANバーコードの基礎を作り上げた人である。
そのため、この人がいなければ今の流通のPOS業界は存在し得なかった。
私は数年前から五反田TOCの流通コード開発センターに何度が通ってはいたのだが、なかなか直接じかにゆっくり話す機会などありえなかった。そのためできればいつかゆっくり話してみたいと思っていた先生のような人であった。
その浅野先生が、突如POSセンターを訪ねてきてくれてたのである。2時間ぐらい話をしてて、今となってはどんな話をしていたのかさっぱり覚えていないが、浅野先生曰く、「いやー、こんなセンターやりたかったなー」、「もうちょっと落ち着いたら同じようなことやりたいなー」、と、すごく納得していただいた様子でしきりにPOSセンターを誉めて頂いたのを覚えている。
なんでそれほど浅野先生がPOSセンターをやりたかったのか、羨ましがったのかは、今となっては聞くことも出来ないが、多分自分のやってきたバーコードの集大成として、POSを並べたショールームをやってみたかったのではないかと思う。
私にとってみれば大先輩であり、憧れの人であり、その人と身近に話が出来て、そしてその人に羨ましがられ、誉めていただいた。
このことは、その当時POSセンターをオープンしてよかったなと実感し、今でも一番の印象として残ってる。
その後、浅野先生に会う機会はそれほどは無かったが、何かと気に留めていただいて、息子のようにかわいがって頂いた。何か新しい発見や、気にかかることがあると、すぐにFAXで要件が送られてきて、こんなことをやってみたら、とか意見、感想を求められた。
彼はなんでもFAXを送る達人で、たくさんのFAXが送られてきた。
しかし、翌年1996年5月、一通のFAXが会社に届いた。浅野先生が富士吉田で亡くなったという訃報のFAXだった。58歳だった。私は知り合った機会に先生とやっと色々な話が出来ると思っていたし、またゆっくりと先生と話したいと思っていた矢先の出来事だった。
私とPOSセンター所長の勝俣は、足立の葬儀場に向かった。浅野先生ほどの葬儀なので流通関係の何百人というありとあらゆる人が参列を行った。
その死があまりにも突然で、早すぎたからであろうか?
葬儀場は、あまりにも小さな100人も入ればいいような団地の中の小さな公民館、外には200m以上の弔問の列が出来て、流通、コンピュータメーカ等、様々な蒼々たるメンバーが列をなしていた。その列は、先生の人徳を再度認識させられるものであった。
浅野先生がもっと長く生きていたら、私は何であの時あれほど、私どものようなPOSセンターを羨ましがり、やりたがったのか?答えを聞きたかった。しかしその答えは、いずれ浅野先生の年になればわかるのではないかと思ってる。
浅野先生が羨ましがるようなことを自分たちはやってるんだ。先生は私に大きな自信を与えてくれた。
浅野恭右氏の業績は、「バーコードへの挑戦」というタイトルで日本経済評論社から出版された。
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- [2004/08/10 22:24]
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