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会社設立回想録15 ネットはじめ 

20年目の独り言15 

1994年は一年を通して変革の多い年であった。

5月には本社を文京区大塚5丁目に移転した。
それまでは、23坪のフロアを6階と5階で2フロア借りていて
いつも階段の上り下りをしてて効率が悪かった。
ワンフロア66坪の事務所は景色もよく居心地も良かった。

引越しの翌月にはインターネットの回線を本社に引いた。
実は、その当時は私もインターネットがよくわかってなかった。
まだWindows95も出ていない時代である。
かろうじて私はWindows3.1をいじってた程度だ。

しかし世の中が徐々にインターネットの時代だと叫ばれてた。
インターネットを知るにはインターネットを導入するしかないと思った。
私は雑誌や参考書を買いあさり、
Winbiffというメールソフトを作ってたオレンジソフト社を介して
アーキテックアンドアーツというプロバイダに発注した。

アーキテックアンドアーツと我が社をつなぐには
両社の回線の先端にルーターが一台ずつ、計2台必要だった。
ルータと言う言葉もこの時初めて知った。
シスコのルータだと一台50万円もすると聞いたので、
まだあまり実績の無いヤマハのルータを買った。
それでもRT101iと名付けられたヤマハのルータはそれでも一台20万円もした。
回線はISDNの64Kだったが、回線の使用料も月額20万位した。

オレンジソフトの人間が来て、回線をセットしていった。
セットする様子を横で見てて、
nslookupというコマンドを叩いて国内のあるメーカにアクセスしたとき
ロンドンやロス経由で情報が来ていることに驚いた。
当時のアーキテックアンドアーツは、値段が安かったため
国内の中継地が無く、海外にしか回線がつながってなかった。
そのため、国内の情報であってもすべてが海外経由で送られてくる。
しばらくそれが、理解できなかった。

「メールってなに?」ってオレンジソフトの人間に聞いたのも覚えてる。
これこれこういうもので、と説明を聞いたのだが当時はよくわからなかった。
その当時は、メールする相手がいなかったので理解が出来なかったのである。
今は多くのやり取りでメールを使っている。
こんなに急激に変化するとは思っても見なかった。

本社にwindowsNT3.15のサーバーを立ち上げて
モザイクと言うブラウザを立ち上げてみた。
当時はまだネットスケープもIEも存在しなかった。
それでも画面に文字や画像が表示されることを驚異の目で見てた。
サーバに使ったパソコンはペンティアムの75MHz、メモリが32MB
当時、当社ではほとんどNEC98ばかりだったので
初めてのDOS/V機だった。

数ヶ月して、WWWの稼動に着手した。
WWWサーバーは、EMWAC HTTPSというソフトを使った。
当時、NTサーバーでWWWを立ち上げるのは珍しかった。
メールサーバーはEMWACのIMSというソフト
DNSサーバーもBINDを使用した。
説明文もすべて英文で苦労したが、
立ち上げてみるとあっさり動き、軽快であった。
検索エンジンもまだヤフーなどは無く
NTTディレクトリという、NTTのホームページだけが頼りだった。

このサーバーは、スバムメールの餌食になる1997年まで使用した。
設置当時はウイルスもスバムも無い平和な時代だった。

インターネットの導入は、すべてが目新しく、新鮮であったが
早すぎた導入でもあったために、ホームページが出来てしまってからは
しばらく放置してしまった時代があった。

2000年を過ぎて、お客様に
ビジコムのHPは内容は手作りみたいだね、って言われて初めて気づいた。
確かに私が一人で書き上げて手作りだった。
HPが珍しい時期から、あたりまえの時代に移り変わっていた。
HPが企業の顔へと変化してたのであった。

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会社設立回想録14 1993年ごろ 

20年目の独り言14 1993年ごろ

1993年から1994年にかけては実はあまり記憶が無い。
回想録を書き始めて、トラブルや大事件は覚えてるのだが
うまくいってた時のことは、それほど記憶に残っていない。

開発で、色々と苦労したのは覚えている。
その当時のメインの開発者が多少変わってて
ドキュメントを書かなかったり、ソースを他のものに見せなかったり
あえて難解なソースのコーディングをおこなったり、
すでに複数の開発者で共同で開発をおこなってるにもかかわらず
その人間にしかわからない開発内容が多かった。

それだけならいいのだが、
解らないことを盾に、賃金や地位の条件交渉を行って来た。
私は仕事の能力に合わせた多少の条件交渉には応じても
その開発者だけを特別優遇するようなことは断じてしなかった。

ある時期に達すると困ったことにその変わった開発者は
開発ソースを消してしまうことまで匂わすようになってきた。

仕方が無いので私は決意した。
他の開発者と相談をし、了解を取った上で
ある日その開発者の開発環境のロックアウトをおこなった。
その開発者のすべての開発環境は別室に置かれ
ソースを消されないような処置をおこなった。
しばらくして、その開発者は退職した。

その当時、その開発者が作っていたものはデータベースエンジン、
今のようにORACLEやSQLサーバがある時代ではなく、
二分木のアルゴリズムを用いて手作りでデータベースを構築していた。
ある意味では優秀な開発者ではあったが、それが裏目に出てた。
そのため、そのデータベースエンジンをそっくり移し変えた。
それにより、複数の開発者が共同で管理できる
万全な開発環境が出来上がった。

1993年11月には、長女が生まれた。
自分が父親になると言う実感が薄かったが
会社の業績も絶好調で、仕事も家庭も円満な時期であった。

そんな環境に遭遇しながら
翌年、1994年は今から考えても大きな変化の年であった。

1994年1月、今販売しているBCPOSの開発の概略をまとめた。
1994年5月、東京本社を移転、関西営業所を大阪支店へ拡張
1994年8月、「池袋パソコンPOSセンター」開設
どれも大きな流れではあるのだが

その中でももっとも大きな潮流は
1994年8月に本社にインターネット回線を引いたことだった。

ビジネスmixi 

最近になって急に感じてることだが
ビジネスの上でのmixiってかなり可能性があるのではないかと。

当初、mixiはそれほど珍しいものではなく、
どこにでもあるような出会系サイトの
延長線上のようなものと考えていた。
すでにアバターを使った同じようなサイトが存在していたし
それの亜流だと感じていた。

しかし、最近400万人を突破し、
多くの人がで自分のブログなどを書き始めてる。
mixiが他のサイトと明らかに違ってたことは
コミュニティーの作りやすさと検索のしやすさ
そして中継基地としての便利さとシステムの軽さである。

まだまだ改善の余地はあるが
このコミュニティーの作りやすさ、集まりやすさが
私には非常に魅力に感じている。

人が考えていることは千差万別である。
子育てあり、趣味あり、仕事あり、学校あり
コミュニティーの作りやすさは、自分の興味に引き付ける。

地域のコミュニティーなら隣近所嫌いであっても
付き合わなければならない。
しかし、ネット上のコミュニティーは、本当に気の会うものだけ集まって
自分たちの興味のあるものの話題を盛り上げればいい。

ビジネスにおいても、自分たちの業界、仕事内容において
興味のある人が集まり、話題を盛り上げていける。

mixiは招待制で始まったためか、非常に実名登録が多く
ビジネスの世界と割り切れば、実名も会社名も載せられる。

ただ、重要なのはプライベートときっちり区分けすることだ。
私は、mixiのIDを、プライベートとビジネスで使い分けている。
プライベートは匿名で、ビジネスは実名だ。

また、mixiはアバターと違い写真を載せられる。
ビジネスの世界では当然、顔写真でいい。
名刺に顔写真を載せる感覚である。

またmixiが滞在時間においてYahoo、Googleについで
第三位になったと言うのもうなづける。
これだけの人間が集まり、これだけの意見があるなら
もうこのサイトを覗くだけでおなかいっぱいで
他を回ろうと言う気が起きなくなってくる。

これを私流に言わせれば
郊外にでっかいショッピングセンターが出来て
その中に百何十件ものお店が乱立し
その中だけの買い物で十分に用が足りるのに
そのショッピングセンターをわざわざ出て横断歩道を渡って、
その外のお店にまで買い物に行かないのに似てる。
普通の人なら一度その中に入ってしまえば、飽きるまでその中にいる。

これは非常に怖いことだと感じている。
ネットの世界でも今まではYahoo、Google等で
わざわざ検索して、その目的のHPにたどり着いていたが
mixiの中にいれば、その検索さえも必要なく
必要なコミュニティーや意見がそばにあるのだから。

先日mixi社長の笠原氏と少しだけお話して
mixiのBtoBの活用について質問したが
どうもBtoCには熱意を持っていても、BtoBにはピンと来てなかった。
作った本人たちが認識していないのは、またまた脅威だ。
その環境があり、いつでも有効活用できる土壌を持ってる。

mixiのBtoBでの活用は
ひとつのコミュニティーである程度の人数に達したときから始まると思われる。
今はその助走のとき
制約の無いビジネスmixiの活用をぜひともお願いしたい。
mixiのマザーズ上場日は2006/9/14。。

会社設立回想録13 1992年ごろ 

20年目の独り言13 1992年ごろ

少し前後をするが、1991年11月には、
東京の上板橋にファミコンショップ「ふぁみっと」をオープンした。
1992年3月にリサイクルPOSを出す4ヶ月前だ

実店舗を持ちたいと思ったのは、
当時、リサイクルPOSシステムを開発中であり、
そのシステムを動作確認できるアンテナショップが欲しかった。
また、レンタルシステムしか持たない不安と、
日銭の入る商売も憧れの的だった。

その前年度にはスーパーファミコンが発売されており
NECからもPCエンジン、セガからもメガドライブ、SNKのネオジオなど
TVゲームの花盛りの時期でもあった。

お店での中古ゲームはそこそこ売れたが、
どうしても、事務所からは離れている店舗のため
システムの運用だけでない苦労を味わった。
子供たちの万引きへの対処や、店長の教育、
アルバイトの確保やアルバイトの不正など悩まされることが多かった。

また、夜には何度か泥棒にも入られた。
こじ開けられた鍵の修理や、防犯装置の設置
警察への対応など、システムを作る立場とはまるで異なっていた。

そして1992年1月、私は30歳で結婚した。
結婚した手の頃は、システムのトラブルでよく夜中に呼び出された。

1992年9月には、レンタルシステムを高崎のツタヤに納品した。
その当時のツタヤのシステムは遅くて使い物にならなかった。
150坪ほどのお店で、一日に1500本近くの貸出があり
ツタヤの採用してたNECのN6830POSだと、
一本の返却処理にに平均5秒以上かかってた。
そのため、一分間に10本程度しか返却処理が出来ず
カウンターの内側に返却処理できないビデオが山積になっていた。
そのため、オーナーが本部と掛け合って採用が決まった。

当社の作ったシステムは、非常にスピードが早かったが、
当時まだ今のような安定したLANシステムが無かったため
LANがスピードが遅く、不安定なためたびたびトラブルを起してた。
当時はまだDOSであり今のようにLANが標準環境で用意されているものではなかった
PI-NETというLANを使っており当初は1Mのスピードしかなかった。

LANが切断されてデーターを壊す。
そのたびに私は呼び出されて、夜中の関越道をひたすら走った。
LANが現在のイーサーネットに変わり、
Netwereを使い始めてトラブルは無くなった。

それまで、2年間はひたすら私は関越道を走りぬけた。

ただこの間のトラブルは、当社も私も大いに進歩させた。
そのお店は今では、ツタヤ本部のシステムに変えられてしまったが、
使っていただいた5-6年の間は、トラブルの修復の歴史が
当社の開発、サポートのノウハウの蓄積になった。

妻とたまに、あの頃はよく呼び出されたねー、と
人事のように話すときがある。
夜中の電話に、ドキッとし、夜中12時過ぎに関越を飛ばす。
当時、電話を受けて一時間以内にお店に到達していた。
今から考えると、140km以上で飛ばして
よく覆面パトカーに捕まらなかったもんだと感心している。

会社設立回想録12 第二の柱 

20年目の独り言12 

会社設立してから4年目、
1990年代に入ってからも会社の売上は順調に推移した。
新しく開発したシステムは、評判もよく
自社開発のため、売り上げは大きな利益に結びついた。

設立当初は2~3人だった社員も11人までに増え
4期目には売上も2億を超えていった。

しかしながら、
1990年3月大蔵省から通達された土地関連融資の総量規制、
世の中はバブル崩壊へ向かっていった。
前回書いたように、レンタルビデオは黒字の会社が副業で始めることが多かった。
好景気時にはいい商売だが、会社が赤字になってまでやる商売ではない。
レンタルショップのオープンも陰りが見え始めていた。

この時点で、私はある不安に襲われた。
しかしまだ、景気がよくも悪くも、売上も人も増え順調に推移していた。
まだしばらくは、この状態を維持することが出来るかもしれない。

ただ、今会社の柱になってるのはレンタルシステムしかない。
この商品がもし売れなくなったら、会社はどうなっていくのだろう、と。
そんな環境の中で、私は会社の二本目の柱となるシステムを作ることを決意した。

当時はまだレンタルビデオは全盛期であったが、
一部の地域では過当競争がすでに始まっていた。
それを早めに関知した目先の聞くお店のオーナーは
次の新しい業種業態を探していた。

その中でも注目されていたのがカラオケボックスとリサイクルショップであった。
カラオケボックスは1998年ぐらいから急激にお店が増え伸びてた。
そしてリサイクルショップも、ファミコンカセットの中古買取が盛んになり
1990年にはスーパーファミコンの発売とともに急激に伸びそうだった。

当時、カラオケ管理システムと、リサイクル買取システム
同時に二つのシステムを開発する案も浮かんだ。
しかしながら、当時の会社の体力としては、
同時に開発することは不可能だと考えた。

私は次の点から、リサイクルシステムを開発することを決定した。
カラオケボックスは、お店の作りとしてレンタルショップとはまるで異なり
まるっきりの新業態として、新しく立ち上げるお店のほうが多かった。
そのため、システム開発はゼロからの出発であり
カラオケを始めるオーナーも異業種からの参入も多かった。

しかし、リサイクルならレンタル店の中での営業が可能であり、
今のレンタルシステムとリサイクルシステムの共存もありえある。
お店で必要とされるのは、レンタルとリサイクルの同時管理が出来る
ハイブリッとなシステムで、今のシステム開発の延長線上でいける。

1992年の3月、リサイクルシステムは完成した。
リサイクルシステムを「ふぁみっと」と名付けた。
会社の収益の柱が、レンタルシステムとリサイクルシステムの二本になった。

リサイクルシステム「ふぁみっと」の完成は、大いに会社を支えてくれた。
レンタルビデオは好景気に強いお店だったが
リサイクルショップは、不景気に強いお店だった。

景気がだんだん後退するとともに、ふぁみっとが売れ始めていた。
そして、リサイクルショップははゲームだけでなく、
本、CD、洋服(リサイクルブティック)、家電、小物等に広がった。

リサイクルは、個人から仕入れるため仕入れ金額がまちまちで
在庫管理がきちんとできてないと、お店の利益を計算することが出来なかった。
そのため、コンピュータ管理は必修で私はいち早くそれに気づいていた。
不景気は、リサイクルショップの追い風になり、店舗は増えていった。

レンタルシステムとリサイクルシステムは、
MS-DOSの時代が終わり1998年にWindows対応のPOSを出すまで売れ続けた。
ふぁみっと導入店舗は1000店舗、レンタルシステムが800店舗
レンタルシステムのほうがリサイクルシステムより3年早く開発したことを考えると
いかにリサイクルシステムがニーズに合致し売れたかがわかると思う。

1990年から1996年まで、株式会社ビジコムの第一次黄金期で
1996年には年商5億7千万円を上げたが、
それを境に急激に転落していくこととなった。


会社設立回想録11 バブル崩壊前後 

20年目の独り言11 (バブル崩壊前後)

1989年6月にビデックスジャパンで発表したシステムは
残っていた帳票のプログラムを完成させ8月から販売を始めた。
新しいシステムの名前は「ビデオレンタルver3」
システムは順調に売れ、会社も売上を伸ばしていった。
1986年3月の創業から約3年ちょっと経っていた。

私は運がいいほうだった。
時はバブルの全盛期、世の中は好景気に沸き
レンタルビデオ業界は急成長した。

ビデオレンタル業界が急成長したのは理由がある。
企業が高収益を上げ高利益を出すと法人税が膨れ上がる。
そのまま法人税を払う企業も多かったが、
バブル当時はビデオレンタル店のオープンは大きな節税対策になった。

レンタルビデオ店をオープンすると数千万から1億円超かかる。
その費用には、建物や什器も含まれるが
その大半は、レンタルビデオテープである。
ビデオテープは貸し出すものであり在庫とは評価されず
消耗品費として経理処理されていた。

ビデオテープは高いものであっても20万円を超える商品は無く
ほぼ全商品が消耗品費として処理されていた。
そのため、企業がレンタルショップをオープンさせると
レンタルテープの数量によって数千万から1億円超の
経費として処理することが可能だった。
必要であれば、億単位のお店を何店舗もオープンする企業もあった。

しかも、レンタルビデオの需要もうなぎのぼりに増して
オープン後は店舗として売上を生んでくれる。
この当時から、CCC(ツタヤ)が企業のFCを急激に増やし、
当時のエスポ(現在のゲオ)も不動産収益を得て急成長しF1参戦してる。
バブル期の企業にとっては、レンタルショップは大きな魅力だった。

私が創業したのはバブル期の途中だったので
まだ運が良かったほうだが、少し残念なことがあった。
それは、もう少し早く事業を始められてたら
もっと楽に会社を運営できたであろうことである。

会社自体はやっと起動に乗ってきたような感じではあったが
毎年利益を上げるたびにかなりの税金を持っていかれる。
利益と言ってもそれは在庫であり、運転資金であり、
キャッシュとして存在しないのに払わなくてはいけない税金、
税金を払うために借り入れし、毎年のように頭を悩ませていた。
これがゼロから始めた会社の悩みでもあった。

その当時、すでに軌道に乗ってた会社があった。
アスキーの西氏、ソフトバンクの孫氏、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏
私よりちょうど5~6年上の世代である。
彼らは私より5~6年早く事業を起し
パソコンとバブルの成長にうまく乗り急成長していった。

よく考えてみると、この世代による格差は大きい。
私はバブルの最後のバスにやっと乗れた感じではあったが、
バブルの崩壊と同時にすぐにバスから降ろされた。
最初の頃にバスに乗った人たちは遥か遠くに行ってしまった。
私以降、1990年の不動産融資規制後のバブル崩壊以降の世代は
バブル崩壊でバスにさえ乗れていない。

私は1989年、都内に3800万円で2LDKのマンションを買った。
今から考えると、まだ28歳で独身生活、賃貸でも十分。
なにもバブル崩壊の前年度にマンションを買わなくても良かったのにと思うが、
欲しくなくても買わざる終えなかった。

たとえば、会社の事業資金融資、
保証人の欄に持ち家、賃貸、を記載する欄がある。
もし、保証人の欄で賃貸にとマルをつけると、融資が困難だった。
コピー機のリースでさえ、賃貸にマルをつけると通らない。
その当時は、何をするにも不動産担保主義で
借金してでも何らかの不動産を持ってないと会社の経営は困難だった。

買ったマンションは、買った翌年度は4500万円まで上がり
翌々年度以降バブル崩壊後は年々下がり続け
最後は2000年の引越し時に1700万で売却した。
これもあと4~5年早ければ、もっと安く買えただろうし
そうすれば、大きな損をすることも無かった。
ただ、その時期はまだ学生、クレジットカード自体が出来ない時期だった。

バブルの前後でかなり出遅れ振り回された感じではあったが
どうにか私の会社は、緩やかな成長を続けていった。

1990年9月、私は新大阪駅に関西営業所を開設した。
大阪の事務所は営業マン一人、事務員一人の小さなものだった。
それでも、西日本に販売拠点をもてたことは、
今後の成長にうまくつながって行った。


会社設立回想録10 (開発会社へ) 

20年目の独り言10 

株式会社ビジコムに社名を変え
南大塚に引っ越してきた事務所は23坪。
丸の内線の新大塚駅から徒歩1分の好立地にあった。
ワンルームのマンションから引っ越してきた荷物は
23坪の事務所の真ん中に机4つ
最初はあまりに広い空きスペースに驚いた。

仕入先をオーゼットから開発者個人に変えたものの
まだまだ解決しなくてはいけない問題は多かった。
一番大きな問題は、開発者個人の人間性であった。
どうにか商品の仕入れ先は確保したものの
直接取引きしたとたん、新しい問題に直面した。

私が脱サラ、創業して2年少し
システムの販売をすればするほど、お客の要望は増していった。
新規の顧客に営業するにしても、競合ライバルとの機能差に悩まされ
既存の顧客にしても新しい機能の追加を早期に求められた。
そのため、二年間オーゼットに通いつめて
システムの改良、新規開発の打ち合わせに努めてきた。

すでにその頃は、カシオや大手のライバル他社も参入しており
新しいシステムの開発、リリースは急務であった。
開発者個人が作る新しいシステムの開発は順調に進み、
評価も上々ですぐにでもバージョンアップできそうな勢いであった。

私は開発者個人に早急なリリースアップを要求したが、
開発者個人は私に一枚の新しい契約書文面を掲示した。

そこには、新しいバージョンソフトの仕切りの見直しが書かれてあった。
新しいソフトの契約は、オーゼットの要求してきた仕切りより条件が悪かった。
その条件は、私には到底飲むことは出来なかった。
オーゼットの山口氏の言った忠告の言葉が思い出された。
「あの人と直接やると、大変だよ・・。」

新しいバージョンのパッケージは、
プログラムしたのは彼かもしれないが、中身は私の意見の集約だった。
お店の意見や要望、解決策、アイデア、デザイン、
すべての情報は私から伝え、改良を依頼した。
私の意見が無ければ、ここまでの改良は出来なかったはずだ。
しかし、理屈上から言えば、プログラムした人間に著作権はある。

私は決心した。
現行パッケージを継続販売して、条件交渉を引き延ばそうと。
そして、その間に自社で新しいパッケージを開発しようと。

すぐに私は、開発者を募集した。
そして新しく増えたスペースは、3名の開発者が常駐するスペースとなった。
アイディア、そして何を開発するかはすべて私の頭の中にある。
時間とその開発費用さえあればいい。
約一年で、自社の新しいパッケージを開発しようと思っていた。

開発する一年間はドキドキであった。
会社で開発させていた時期システムは、
現行パッケージを売ったお金で開発させている。
もし、仮に開発していることがばれてしまったら
現行パッケージの出荷が止められるかもしれない。
そうすると、会社の運営も開発費の捻出も出来なくなり
会社は行き詰ってしまう。

この間一年は、必死で現行システムを売った。
それまでの倍以上売っていたのかもしれない。
システムの営業をしながら、社内開発の打ち合わせも行った。
開発者個人は、幸いかな相模原で開発していたので、
新しい事務所には一度も来ることは無かった。
23坪の狭い事務所に来られれば、開発は隠しようが無かった。
現行システムの打ち合わせが必要な場合は、
率先して私のほうから相模原に出向いていくことにした。

ある程度開発の見通しがたってきた時、私はひとつの決断をした。
翌年の6月(1989年)、レンタル什器、システムを集めた展示会として
ビデックスジャパンがサンシャインの文化会館で開かれる。
その展示会に出展し、新しいシステムのお披露目にしようと。

新しい事務所に引っ越してきて一年弱
開発者を募集して開発するまでに10ヶ月程度しかなかった。
その展示会に間に合うか間に合わないかはギリギリである。
しかし、それ以上開発を隠し通せるものでもなく、
現行システムをこれ以上販売し続けるにも限界があった。

1989年6月、
多少プログラム開発の間に合わない帳票もあったが
予定どうりビデックスジャパンに出展し、新しいシステムを発表した。
新しいシステムは、機能、スピード、使い勝手
どれをとっても他社には負けておらず評判も上々であった。

それと同時に、
私は開発者個人に代理店の解除通知を送った。
この一年、すでに出来上がってる改善システムを目の前にしながら
お客様に機能改善の苦情を言われ続け謝り続けてきた。
また、開発者個人との打ち合わせでも、悟られないよう
気を使いながら、不満も封じ込めてきた。
私自身、この一年間は気の抜けない時間で、限界であった。
この解除通知は、私自身のけじめでもあった。

いいものを作って、お客様にいいものを提供したいだけなのに、
それまでは、利害関係で苦労することが多かった。
それも自社で開発することにより、
開発者に気を使うのではなく、お客様に目を向けたシステム開発が出来るようになった。
自社で開発して自社で販売する体制が出来上がった。

ここに、ビジコムは販売会社から開発会社に脱皮した。
消費者の視点に立つ会社が出来上がった。


会社設立回想録9 (巣立ち、ビジコム誕生) 

20年目の独り言9 (巣立ち、ビジコム誕生) 

会社創業から社設立までの約2年弱(1988年)、
月2~3店舗のペースでシステムを導入するお店が増えていった。
それにも増して増えていったのが、導入してくれた店舗の要求事項であった。
当初のシステムはそこそこには使えるのだが、
機能的な不足面が出てきてるのは明らかだった。

私の仕事の大半は外での営業活動であったが
残る半分は、システムの打ち合わせ等に費やした。
システムの打ち合わせは主に相模原のオーゼットで行われた。
二週間に一度くらいのペースで私は車を走らせ、
都内から府中街道、町田街道を抜けて相模原に向かった。
毎回の打ち合わせ、議論は長時間に及び
深夜、都内に帰って来るケースも度々だった。
その甲斐もあってか、システムの変更も順調に進み
私とオーゼットの関係は順調に見えた。

ある日のこと、
私がいつものように相模原に行って打ち合わせを始めると、
オーゼット田川氏のほうから、突然話を切り出された。

「システムの仕切りの値上げをしたい・・」、と

私の頭は混乱した。
今までオーゼットの販社だと思って活動してきた。
そのため、オーゼット販売の社名で会社を設立した。

私が個人で営業をしてることとしてみれば、
確かに見た目の取り分は多いように見えた。
しかし、その時はもう一人ではなく、部下も経理の事務員もいた。
事務所も住居兼から、独立したものに切り替えた。
すべての販売計画は、ある程度の利益が取れることから計画されていた。

一番大きく欠如してたのが、広告に対する概念である。
私は販売した利益を、必要な経費を除いてすべてを広告費に当てた。
小さな会社には大きすぎる広告費ではあったが、
その経費のすべてをオーゼットからは否定された。
事務所も作り、従業員も雇い、儲けすぎと判断されたのである。

何度も話をしたが、最後に田川氏は言った。

「値上げに承諾できないのなら売らなくてもいい・・」

この言葉で、オーゼットとの関係は決定的となった。
それまで、仲間として助け合い、助けられながらやってきた。
オーゼットが無ければ、会社の出足は無かったと思われる。
その分、私は販売して、オーゼットにも利益を還元してきたつもりだった。

値上げに承諾できなければ、商品を卸さない。
値上げされたら、会社自体もうまくいかない。
商品を卸してもらえないと、商品も売れない。
それは、その商品しか売っていない会社にとっては致命的であった。

私はとうとうオーゼットとの関係を断念した。
どうにかして、打開策を探した。

幸いなことに
オーゼットは開発元といっても、システムを作ってるのは別な個人だった。
そのため、著作権はその開発者個人が持っていた。
厳密な流れは、個人からオーゼットに商品が卸され、
オーゼットから私の会社に商品が卸されていた。
オーゼットは一次代理店の扱いで私は二次の扱いであった。

私はオーゼットとの関係を断念し、その個人と交渉した。
その個人は、オーゼットを経由せず私に直接卸す分だけ卸値が上がった。
私は、個人と直接取引きすることで、オーゼット時代と同様の仕切りを確保した。

創業から2年間、私は一人で会社を作ってきたように見えるが、
大きな意味では、オーゼットの保護下で営業してきた。
商品の売り方から、リース会社、仕入先、いろいろなものを教わった。
オーゼットが無ければ創業は無かったものと思ってる。
しかしその会社を乗り越えないといけない時期にさしかかっていた。

1988年7月、会社を板橋区から豊島区南大塚に移転した。
それと同時に、
社名を「オーゼット販売株式会社」から「株式会社ビジコム」に変更した。
法人になってから9ヶ月目、ある意味での育ての親オーゼットからの巣立ちであった。


会社設立回想録8 設立 

20年目の独り言8 設立

住居兼事務所から、ワンルームマンションを借り
創業から一年ちょっとで、やっと独立した事務所を開設した。
机も中古オフィス家具屋から4つ買ってきて部屋に並べた。
8畳のワンルームのスペースは、あっという間に埋まった。

広告を入れてから、ある程度コンスタントな資料請求が入ってきてた。
営業に行きデモをすると、かなりの確立で受注を取ることが出来た。
私一人では仕事が回らなくなってきたため
営業中に知り合った代理店の人間を営業として引っ張った。
営業が私ともう一人、二人になった。
それと同時に3人目の募集は経理の女性を募集した。

なぜ、3人目が経理だったかと言うと
会社は順調に売上を上げていたが
一年ちょっと経った状態でも、まだまだ会社ごっこだった。
私自身はある程度の数字はつかんでいるものの、
売上、商品の仕入れ、在庫などはあいまいで大雑把だった。
会社はまだ法人登記もおこなっていおらず
ちゃんとした銀行取引すら出来ていなかった。

その当時の会社には、表に出せる信用が何も無かった。
会社は作りたて、登記もなし、私は若い、カードも作れない。
やっと事務所らしきものを作っただけの状態。
仕入先、リース会社、販売先、対外的ないろいろな取引を考えた上で
積み重ねていかなければいけな物は多かった。

それらのことを考えると、
数字をきちんとつかみ、いつでも表に出せる帳簿作りが急務だった。
経理の女性は、帳簿を作り数字をきちんと把握してくれるとともに
事務所で電話応対をこなしてくれた。
やっと会社らしい形態になってきた。

ある日、突然男の人が飛び込んできた。
近くの国民銀行常盤台支店の飯田支店長だった。
ワンルームマンションの前にある天祖神社に参った帰り
小さな看板を見てどんな会社なのか飛び込んできたのだと言う。
これは私にとっても都合が良かった。
いづれどこかの銀行と取引を行い会社を法人化する必要があった。
私は飯田氏に仕事内容、状況をお話しし、飯田氏は経理資料を持ち帰った。

数日後、飯田支店長はやってきて、
普通口座、当座口座の開設とともに、法人登記の手続きも受け入れてくれた。
1987年10月、創業から1年7ヶ月を得て
資本金200万円の「オーゼット販売株式会社」が誕生した。

法人登記をしてからは、外部との取引が楽になった。
仕入先として、上板橋にあったNEC商品販売を直接たずねた。
飛び込みは珍しかったらしいが、NECのパソコンを卸してくれと頼んだ。
しばらくして、直接取引きが出来るようになり、
秋葉原でパソコンを買い込んでくる必要性が無くなった。

やっと誕生した「オーゼット販売株式会社」ではあったが
その9ヵ月後には「株式会社ビジコム」に社名変更した。
変更せざる終えない環境に変化していった。

会社設立回想録7 創業(広告) 

20年目の独り言7 創業(広告)

創業から半年過ぎた秋、
6畳アパートから10畳の部屋に移り住んだ。
私は家具屋に行ってソファーベットとロールカーテンを買い
その部屋を半分に仕切った。

部屋は
昼間はソファーにしてロールカーテンを下ろし事務所となり
夜はベットのにして、ロールカーテンを上げた。
それまでは、生活空間と仕事空間が混在していたが
ちょっとした工夫で、小さな仕事空間が出来上がった。
まだまだお客様を連れてくるにはどうしょうもなかったが
業者間同士、仕事の打ち合わせには十分だった。

私は懸案だった広告代理店の人間を呼んだ。
雑誌に広告をかけるためだった。
すると広告代理店の社長自ら、小さな事務所にやってきた。
放送文化通信社の矢口社長であった。

広告代理店と言う商売は、非常に薄利でリスクの多い商売であった。
そのため、名も知らぬ会社の広告には疑心難儀であったのであろう。
しかし、狭い事務所で私の話を聞いてくれて安心したのか
ベテランの営業マンをつけてくれて、納得のいく原稿が出来るようになった。
広告はその内容の出来不出来で、反響が左右される。

それまでは、一人飛び込みのスタイルで仕事をしていた。
しかしながら車を走らせて飛び込むスタイルでは限界があった。
毎日地図を見ては、知らない土地に車を走らせた。
ある意味で、商品は売れていた。
しかし、売り込みに行くのには一人では効率が悪かった。

私はそれまで売れた利益から
一ヶ月の生活費20万円を抜き取り、残りすべてを広告に当てた。
たった一人の会社で全国に広告を打つのである。
ビデオコレクションという雑誌に白黒1Pの広告を載せた。
そして、2色刷りのパンフレットも作成した。

まだそれほど、レンタルのシステムが出てない時代である。
また、この当時はパソコンではなく、オフコンの時代でもあった。
広告の効果はてきめんだった。
月に十数件の資料請求が入るようになり、
営業は飛び込みのスタイルから、
資料請求を追いかけるスタイルに変わるとともに
新潟や大阪などにも営業に出かけるようになっていった。

引越しから半年後、1997年5月、
ある程度のお金が出来たため、私は生活と仕事を分離すべく、
近くの8畳くらいのワンルームマンションを事務所として借りた。
ワンルームマンションの出窓には、「オーゼット販売」のカンバンを掲げた。

順調に見える滑り出しだったが、
開発元のオーゼットと販売会社であるオーゼット販売の間には、
徐々にひずみが生まれていった。


会社設立回想録6 創業(初めてのPC) 

20年目の独り言6 創業(初めてのPC98)

会社を辞めて、少ない軍資金が尽きかけた頃その電話はかかってきた。

「もう一度話を聞きたいんだが・・・」

この電話によって、私は再びサラリーマンに戻らずにすんだ。

もしこの時、電話が掛かってこなかったら
私は今どうしてたであろうか?
ある意味では早すぎた創業のため社会を知らぬ間に過ごしてきた。
あと2~3年くらい企業人を過ごしてきても良かったかもしれない。
ただ私の性格からすると、企業の下で働けるとも思えない。
そう考えると、妥当な時期だったのかもしれない。

お店との商談は順調に進み、すぐに導入が決定した。
とはいえ、導入が決まったからにはやらなければいけない作業がたくさんあった。

レンタルショップの場合、
何千本もの商品や何千人もの顧客の登録が必要となる。
そしてその登録された商品をバーコードに印刷し
ビデオにバーコードを貼る必要がある。
その作業をすべて終えないと納品することが出来なかった。

その時まだ、私はパソコンを持っていなかった。
システムの営業をしてるのに、そのシステムを持っていなかったのである。
パソコンは、実売価格で30万円前後もし、簡単に買える額ではなかった。

脱サラして唯一失敗したなと思ったことがある。
クレジットカードを一枚も持ってなかったことである。
サラリーマンのときはあれほどクレジットカードを薦められたのに
カードが嫌で一枚も作っていなかった。
脱サラして、カードを作ろうと思ったらことごとく断られた。
この事態は、起業して4~5年続いた。
会社を興して4、5年経ってやっと作ることが出来た。
若く、そして起業したばかりのときは仕方が無いことでもあった。

契約によって、半金を前払いで頂くことが出来た。
私はそのお金を持って秋葉原にパソコンNEC9801VM2を買いに行った。
そして初めて私の事務所(アパート)にパソコンが設置された。
お客様へ納品するためのパソコンであった。

お客様からお預りしたパソコンは昼夜を問わず大いに活躍した。
昼間、私はそのパソコンを持ち出し、他のお店にデモを見せるため走り回った。
納品してしまっては、デモを見せることが出来なくなる。
デモンストレーションはお客様に商品を見てもらえる最大のチャンスだった。

夜は、大学時代の後輩を二人、アルバイトとして雇った。
彼らは私のアパートで、夜中に徹夜で打ち込み作業をおこなった。
私はその傍らで睡眠を取った。
そんな、デモ、打ち込みの平行作業は、約一ヶ月続いた。

商品の登録作業が終わると、ドットプリンタでバーコードを打ち出した。
バーコードの打ち出しはプリンタが途中で熱で悲鳴を上げストップした。
打ち出したバーコードを商品に貼る作業は巨大なカルタ取りだった。
タイトルを見て何千本もある商品の中から探さなければいけない。
特にアダルトビデオは、タイトルに脈絡が無く難儀した。

納品までの1ヶ月の間、
私はお客様に納品するパソコンを使って
デモ、注文、打ち込み、バーコード貼り、納品、このサイクルを何回か繰り返した。
そして数ヶ月もすると、やっと自分のパソコンをもてるようになった。
NEC9801VM2である。
これにより、お客様のパソコンを使わなくても、デモや打ち込み
見積等がかけるようになった。

創業から半年後の1986年の秋
私は狭くなったアパート兼事務所を板橋区常盤台に引っ越した。
6畳のアパートがたった10畳になっただけだったが
打ち合わせをするスペースが確保できた。

私にはここに移ってやりたいことがあった。


会社設立回想録5 創業(金無い、地位無い、女房ない) 

20年目の独り言5 創業(金無い、地位無い、女房居ない)

「会社を作ります・・」とは言ったものの
それを信じるものは誰もいなかった。

会社を辞めるとき
他部署の部長に、「お世話になりました」と挨拶に行ったものの
部長はろくに目もあわそうとせず、めんどくさそうに「あ、そう」と一言。
こんな人たちと一緒に仕事をしてたのかと思うとがっかりした。

ちなみにもといた会社は、2~3年前に
資本金3千万程度の会社に吸収合併されたと聞いた。
資本金14億の会社がどうやったら、3千万の会社に吸収されるんだろう?
あのまま会社に残ったとしても、ロクな人生を歩めなかったことは確かだった。

会社を辞めた翌日の1986年3月21日
学生時代から住んでいた練馬区小竹町(江古田)の
6畳+1Kのアパートが事務所になった。

創業当初は、
軍資金が社会人1年間で貯めた30万円、
360ccのホンダライフ(軽自動車)が営業車、
ソニーの留守番電話機が事務員になった。

大見栄を切って会社を辞めてしまったものの
私には金も無く、地位も無く、
今から考えるとあまりにも無謀な賭けだった。

ただ、私はまだ24歳で一人身で、
失うにしても何も無い。ゼロに戻るだけだ。
今から考えると、失うものが少ないから頑張れた。

30万円の元手は生活費1ヶ月15万円、
家賃、食費を払ったら2ヶ月で使い果たしてしまう。
2ヶ月間飛び込みをやって、持金が尽きたら
またサラリーマンに戻ればいいとう気持ちもあった。

私は会社名を「オーゼット販売」とした。
仕事内容は前職で企画したレンタルシステムの販売だった。
レンタルシステムを作る「オーゼット」に販売だけをつけただけの
安直な名前ではあったが目的ははっきりしていた。
システムを紹介するチラシを作り、レンタル店を見つけては飛び込んだ。
前職の飛び込みの経験は、ここでは大いに役に立った。

毎日レンタル店を探しながら車を走らせた。
当時はまだ、そんなお店の一覧なんてあるはずも無い。
電話帳のイエローページには、貸布団、レンタカーはあっても
レンタルビデオなんて項目、分類はなかった。
電話帳に項目、分類が出来るまでが勝負だと思っていた。

毎日毎日車を走らせたが、なかなかお店は見つからなかった。
当時は今のようにメイン道路のそばにあるわけでもなく
駅前の少し怪しい路地裏のなかにお店が散在した。
それだけまだ、アダルト、コピーが中心の業界でもあった。
ただ、飛びこんだお店では、意外と話を聞いてくれて、
一時間、二時間話し込むのも多かった。
まだまだシステムでお店に飛び込んでくるのは珍しいほうだった。

ある日、車が故障した。
修理に出したが1週間くらいはかかると言う。
車なしでお店を探すのは一苦労であった。
お店を見つけるのに、どっちの方向にあるのか解らず
地図を見ながら何キロも歩き続けた。
パンフレットを入れた重たい鞄が腕を麻痺させ、転職を後悔させた。

回ったお店は、話は聞いてくれるものの
反応は少なく、なかなかいい返事はもらえなかった。
退社して2ヶ月くらい経つ頃になると、ガソリン代、コピー代
少ない軍資金が底つきかけていた。、
そろそろ、就職先を探さないとまずいかな?と思い始めていた頃、
一度訪問して話をした、大泉学園のお店から電話が掛かってきた。

「もう一度話を聞きたいんだが・・・」


会社設立回想録4 退社前(決心) 

20年目の独り言4 会社設立回想録4 退社前(決心)

1985年
会社の中での私の立場は最悪なもの
同僚は見て見ぬ振りをしてるし、
それでもまだ私はせっかく第一希望で入った会社だし
まだどうにかしていこうと考えてた。

どうやってこのハードディスクを売って行こうか?
いろいろな会社を訪問するうちに、あるソフトハウスに遭遇した。
その会社の名前は相模原市千代田にあった「オーゼット」
田川氏と山口氏のたった二人でやってる会社だった。

「オーゼット」で作っていたのはビデオのレンタルシステム。
その当時ビデオレンタルはまだお店が出来はじめたばかりで
まだVHS、ベータが混在し、洋画、邦画も少なくアダルトビデオが中心、
お店はマスターテープをダビングして貸していた。
しかしながら、ちょっとしたお店ではかなりの本数が貸し出しされ
手書きの貸し出し伝票では、貸出/返却の処理が追いつかなくなっていた。

ビデオレンタルでは、何千本、何千人という商品、会員を管理するのに
データベースが必要になり、ハードディスクが要求された。
そこにハードディスクを売りたい私と「オーゼット」との間に接点が出来た。

田川氏は言った。
「レンタルシステム売ってくれたら御宅のハードディスク使うよ」
今から考えれば、田川氏にうまく乗せられた気がするのだが
私はシステムを組んでハードディスクを売る利点を見つけた。

私は会社に帰って、自社のハードディスクをシステムに組んで
売り歩く企画書を書いて課長に手渡した。
課長は黙って机の中にしまいこんだ。

数日たって、私は課長に聞いた。
「企画書どうでしょうか?」
「いや、まだ見ていない」
何日経っても同じ返事が返ってくるばかりだった。

二週間ぐらい経った頃
業を煮やして私は部長へ談判した。
「部長、私の企画書を見てもらえませんか?」
しばらくして部長は言った。
「課長の見ない企画書を私が見るわけには行かない・・」

確かに課長を飛ばして部長というわけには行かないと思うが
営業推進部といっても、
部長と二人の課長と私の4人しかいない部署だった。
課長が恣意的に目を通そうとしないことも明らかだった。

私は何のためにベンチャーを選んだのか?
大企業ならともかく、小さな会社なら風通しがいいだろう。
新入社員であってもいろいろな仕事を任せてくれるだろう。
目の前の壁に、そう考えていた私の希望は砕け散った。
2月、私は退社を決意した。

退社を決意すると、その会社のあらが見えてくるようになった。
創業当初の社長、部長が牛耳ってる風通しの悪い同属企業。
技術はあっても、下請けの仕事ばかり。
中小企業なのに、金額ばかり大きな資本金(14億)。

退社を決意してそれを会社に告げると
唯一、副社長(元太陽神戸銀行の専務)だけが引き止めてくれた。
「総務部で上場関係の仕事をやらないか?」
入社当初、私が希望していた職種である。
しかし、ここで残ったら2~3年はやめることが出来ない。
あと2~3年も待つと今のチャンスは消えるかもしれない。
やめてしまったら副社長の誠意を反故にしてしまうことになる。
それほど、すでに自分で会社を作りたいと言う気持ちが高まっていた。

私の退社は入社同期15人の中で一番早かった。
会社は私の送別会を禁止した。
同僚数人だけが会社に黙って送別会を開いてくれた。
入社して1年に満たない3月20日、24歳で退社した。

最後の挨拶に行った時、部長は聞いた。
「中馬君、これからどうするんだ?」
私は一言答えた。

「会社を作ります・・」


会社設立回想録3 退社前(会社不信) 

20年目の独り言3  会社設立回想録3 退社前(会社不信)

HIHのシステム部の部長に「営業職向いてるよ」って言われてから
あれだけ嫌だと思っていた営業職も、考えが変わると天職だと思うようになっていった。

それからは営業が楽しくなってきたのだが
営業部署の課長からの指示は、とにかく飛び込んで開拓しろ、だった。
私が売る商品はリムーバブルハードディスク
まだパソコン自体が出始めたばかりの時期に
会社に飛び込んで売れるものだと思えない。

課長に何度も確認した。
「この商品、飛び込みで売れる商品だとは思えないんですが?」
課長曰く
「お前はまだ新入社員なんだから、売れなくてもいい、勉強と思って飛び込め」
私は納得がいかないものの、自分の勉強のためだと思ってそれに従った。

私はその日から、朝一番で会社を飛び出す営業で、
毎日20社飛び込んで、それをレポートで報告するのが日課になった。
一日20社飛込みして回るのは結構つらい。
しかし、ほとんどが門前払いなので一社当たりそれほど時間はかからず、
会社を探すほうが大変だった。

会社に出勤すると、朝一番で新宿高層ビルに登り、
上の階から一社ずつ回って断られると、
また階段で一階ずつ降りて、会社を回る。
新宿の高層ビルだと、一棟あたり約3日かけて回った。

パソコンの飛込みならまだしも、特殊なハードディスクの飛込みだ。
自分の勉強のためとはいえ、100社中100社断られる飛込みに、
何度も疑問を感じ、課長に何度も聞いた。
「飛込みでは絶対売れないですけど、本当これでいいんですか?」
課長、「私が責任持つから大丈夫だ」
真夏の炎天下も含めて三ヶ月間も続いた。

夏の終わりの頃、課長が突然言った。
「中馬くん、いつになったら売ってくるんだ?」
私の頭は真っ白になった。
「課長、売らなくてもいいから飛び込みしろって言いましたよね?」
「飛込みするのか、売るのか、どっちなんですか?」
課長はしばらく間が空いた後、「売って来い」
「解りました、売るための営業をすればいいですね。」

私は何度も、飛込みでは売れないと主張し
課長からは、何度も責任は私が取ると聞いてきた。
それがあっさり覆され、
売れないのは私のせいだということになっていた。
私はぶちきれた。

翌日から一ヶ月間、私は会社を出ずにずっと社内に閉じこもった。
毎朝、朝一で飛び出していた営業が社内にいた。
課長は聞いた。「なんで営業に出かけないんだ?」
私は「売ればいいんですよね?」
社内に居座って一ヶ月くらい経った頃になると課長は怒鳴った。
「とにかく営業に出て行け」
「嫌です、飛び込みの営業ではなく自分の営業をします。」
すでに課長を信頼していなかった私は、自分の信念を突き通した。

私は一ヶ月かけて、ハードディスクを使用しそうな企業をリストアップしていた。
画像処理、CAD、データベースを使う企業等
そして翌月からは、そのリストを元にアポイントを入れ始め
ピックアップした企業を次々と訪問した。
そして3ヶ月くらい経った頃、数台の注文を取れるようになっていた。
しかしながら、その頃になると私と課長の仲は最悪な状態だった。

課長は上司の命令を聞かない私をとんでもない奴だと思っていたし
私は課長以上の上司の評判も悪かった。
部長がある日言った。
「中馬君、もう少し課長とうまくやれないか?」
私も課長のことを公言した。
「バカな課長の下では働けません。。。」
部長は黙り込んでしまった。

私はとんでもない新入社員だった。

続く

会社設立回想録2 退社前(営業が好きになる) 

20年目の独り言 2 退社前(営業が好きになる)

1985年、23歳で入社したベンチャー、結局は一年でやめてしまうのだが
私があえて大企業へ行かずベンチャー企業を選んだのは理由があった。

その当時、いくつかのベンチャー企業が上場し、持ち株を持つ社員が億万長者になるという話題が持ち上がってた。
その当時上場した会社は、タケダ理研工業(現在のアドバンテスト)、長府製作所など、
今のITブームとはまた違った活気が溢れていた。

大企業で限られた仕事をするより、いろいろな仕事をしてみたかった。
中小のベンチャー企業なら、いろいろな仕事を任されるに違いないと思い込んでた。

私が就職したのは日本システムハウス株式会社という企業、
当時、150名ばかりの会社で、その7割近くがハードやソフトの技術者、
大手企業のR&Dを請負い、多くの基板や内部ソフトウェアを開発していた。
私が一番興味を持ったのは、リームーバブル(着脱式)ハードディスクドライブの製造、米SyQuest Technology(サイクエストテクノロジー)社からライセンスを得てたものだった。
銀行や生保から出資して集めた資本金が14億円、会社の規模からしてあまりにも多かった。
当時太陽神戸銀行の元専務が副社長を勤め、必ず上場するだろうと思ってた。

私は迷わずその会社に就職した。

入社後に三ヶ月の新人研修が終わり、
私は思いもしなかった部署、営業推進部に配置された。
当時私は入社の動機として、上場にかかわる仕事をしたいと強く要望していた。
人事もそれを了承していたので、当然、それに関わる総務・企画に近い部署に配属されるものだろうと思っていた。

営業推進部への配置はしばらく納得がいかなかった。
しかし、ある日を機会に営業という仕事が好きになっていった。

私が営業することになったのは、
私が興味を持っていたリームーバブル(着脱式)ハードディスク
着脱式でメディアが交換できるといっても、
当時交換できるメディアはたったの5MBだった。
市販されていた固定式ハードディスクが、まだ20MBの時代でもある。
その着脱式のハードディスクドライブ2連の機械を、当時63万円で売っていた。
ちょっとした軽自動車が買えるような値段であった。

営業に配属されて2週間ぐらい経ったころ、
私は展示会で集めた名刺へ電話し商品紹介のアポイントを取っていた。
その中に中央区佃島の石川島播磨重工業(IHI)があった。
アポを取ったのはIHIの情報システム部の部長
私は当時まだ、上場企業の部長がどの程度の地位なのかあまり理解していなかった。

IHIに訪問し商品のある程度説明が終わった段階で、部長が一言言った。
「中馬さんは、うーん、凄く若いように見えるんだけど、もう何年ぐらい営業をやってるのかなー?」
私はあまり質問の意味が理解できなかった。
部長は言葉を継ぎ足した。
「いや、話だけを聞いてるとベテランの営業マンのように思えるんだが
顔を見て話を聞くと新入社員にしか見えないんだよ。どっちなのかな?って思って・・・」
私はやっと意味を理解して答えた。
「私は新入社員で、まだ営業に配属されて2週間しか経っていなんですよ。」
すると部長は、
「いやー、やっぱりそうだよねー、でも君は営業に向いてるねー。」

この出来事は、私の考えを根底から変えた。
もしかしたら、自分は営業に向いているのかな?
確かに部長の言うように、私に向いてるかもしれないと。
それからの私は、営業が好きになっていった。

私は、営業マン=セールスマンというイメージでしか考えていなかったのだが
いざ、営業をこなしていくと、奥が深く非常に頭を使う仕事だと感じた。
商品のできばえだけではなく、営業の企画次第でお客は商品を買うし
営業マンがだめなら商品は買ってもらえない。
大きな意味で物が売れるか、売れないかは、営業マン次第なのである。
いつの間にか私は営業が天職だと思うようになっていった。

続く


会社設立回想録1 退職前(就職活動) 

20年目の独り言 1

1986年3月、24歳のとき、私は経った一年しかいなかった会社を辞めた。
明治大学政経学部を卒業して新入社員で入った会社だ。

大学4年の時の就職活動、
私はいろいろな会社を回った。
家電メーカ、コンピュータメーカ、銀行、リース会社、プラント、飛行機会社
自分が何に向いているのかなかなかつかめない時期だった。

何かの研究職に付きたいと思ってた。
でも私が出たのは大学の政経学部、経済学科
人事担当者は私のやりたいことを怪訝な顔をして聞いた。

東芝では
自ら電気の発生する物質でICチップを作れば人工知能が出来ると
と人事担当者に説明した。
人事担当者は怪訝な顔をしてたのを覚えてる。

NECでは
自ら名づけた「感温電池」を作りたいといった。
光を当てて電気を起こす物質があるのだから、温度を当てて電機を出す物質もあるのではないかと。
二度と電話連絡は来なかった。

オリックスでは
何回かの面接まで駆け上ったが
面接官に「うちの会社どう思いますか?」と聞かれて
「リスクの大きい会社だと思います」と答えて落とされた。

銀行は
2~3行、面接を受けに行ったが
自分の両親が直前に離婚していたのでだめだと思い再面接には行かなかった。

当時入りたいと思っていた京セラは
母親から突然電話が掛かってきて、
大阪の代議士、原健の紹介状を貰ったので全日空へ面接に行けと
京セラの2次面接と同じ日、同じ時刻だった。
母親の顔もつぶせないので、泣く泣く霞ヶ関の全日空に面接に行った。
三人同時の面接で何か聞かれたが
行きたいと思ってる会社ではないので普通にしか答えられなかった。
面接の結果は、「元気がない」と、当然落とされた。

富士通のリクルート担当の先輩と会い
私のいろいろやりたいことを告げた。
コピー機のガラスの上に、パソコンのディスプレイをひっくり返して乗っけて
コピーを取ったら早くて静かな印刷が出来るんじゃないかと
その当時ドットプリンタしかなかった時期だった。
今から思えばレーザープリンタだった。
先輩は絶対に10/1のリクルート解禁日の午前中に来いといった。
私は10/1行かなかった。
その夜、電話が掛かってきて「なぜ来なかったんだ」と言われて
「行きたい会社があったのでそっちへ行きました。」と答えた。
「翌日でもいいから絶対来い」、と言われた。

他にも20社以上受けたと思う。

当時、NEC PC9801が出た手のころで、これからはPCの時代だと思った。
大学の3年の時、アルバイトをして、PC8801MRⅡというパソコンを買った。
8ビット機で5インチのフロッピー2DDが2基付いてた。
友達からゲームをコピーしたり、ワープロしたり
簡単なベーシックのプログラムも組んでみたりしてた。
大学の卒論は、ワープロで書いて出した。
ワープロはユーカラ、単漢字変換だった。
当時、明治大学でワープロでの卒論提出は初めてだった。
それを認めてくれたのは、近代経済学ゼミ、恩師水上先生の英断であった。

いくつもの企業を訪問する中で
私がコンピュータ系の企業に絞り込んでいったのも当然である。
そのほとんどは大企業であったが、
結局私は大企業を選ばずベンチャー企業を選んだ。

10月1日の解禁日、私は先輩の会社へ行かずやめた会社へ行った。
しかし、その会社を私はたった一年で辞めてしまった。

私は一人で会社を設立した。
それが20年前の1986年3月のことである。

続く

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