会社設立回想録1 退職前(就職活動)
20年目の独り言 1
1986年3月、24歳のとき、私は経った一年しかいなかった会社を辞めた。
明治大学政経学部を卒業して新入社員で入った会社だ。
大学4年の時の就職活動、
私はいろいろな会社を回った。
家電メーカ、コンピュータメーカ、銀行、リース会社、プラント、飛行機会社
自分が何に向いているのかなかなかつかめない時期だった。
何かの研究職に付きたいと思ってた。
でも私が出たのは大学の政経学部、経済学科
人事担当者は私のやりたいことを怪訝な顔をして聞いた。
東芝では
自ら電気の発生する物質でICチップを作れば人工知能が出来ると
と人事担当者に説明した。
人事担当者は怪訝な顔をしてたのを覚えてる。
NECでは
自ら名づけた「感温電池」を作りたいといった。
光を当てて電気を起こす物質があるのだから、温度を当てて電機を出す物質もあるのではないかと。
二度と電話連絡は来なかった。
オリックスでは
何回かの面接まで駆け上ったが
面接官に「うちの会社どう思いますか?」と聞かれて
「リスクの大きい会社だと思います」と答えて落とされた。
銀行は
2~3行、面接を受けに行ったが
自分の両親が直前に離婚していたのでだめだと思い再面接には行かなかった。
当時入りたいと思っていた京セラは
母親から突然電話が掛かってきて、
大阪の代議士、原健の紹介状を貰ったので全日空へ面接に行けと
京セラの2次面接と同じ日、同じ時刻だった。
母親の顔もつぶせないので、泣く泣く霞ヶ関の全日空に面接に行った。
三人同時の面接で何か聞かれたが
行きたいと思ってる会社ではないので普通にしか答えられなかった。
面接の結果は、「元気がない」と、当然落とされた。
富士通のリクルート担当の先輩と会い
私のいろいろやりたいことを告げた。
コピー機のガラスの上に、パソコンのディスプレイをひっくり返して乗っけて
コピーを取ったら早くて静かな印刷が出来るんじゃないかと
その当時ドットプリンタしかなかった時期だった。
今から思えばレーザープリンタだった。
先輩は絶対に10/1のリクルート解禁日の午前中に来いといった。
私は10/1行かなかった。
その夜、電話が掛かってきて「なぜ来なかったんだ」と言われて
「行きたい会社があったのでそっちへ行きました。」と答えた。
「翌日でもいいから絶対来い」、と言われた。
他にも20社以上受けたと思う。
当時、NEC PC9801が出た手のころで、これからはPCの時代だと思った。
大学の3年の時、アルバイトをして、PC8801MRⅡというパソコンを買った。
8ビット機で5インチのフロッピー2DDが2基付いてた。
友達からゲームをコピーしたり、ワープロしたり
簡単なベーシックのプログラムも組んでみたりしてた。
大学の卒論は、ワープロで書いて出した。
ワープロはユーカラ、単漢字変換だった。
当時、明治大学でワープロでの卒論提出は初めてだった。
それを認めてくれたのは、近代経済学ゼミ、恩師水上先生の英断であった。
いくつもの企業を訪問する中で
私がコンピュータ系の企業に絞り込んでいったのも当然である。
そのほとんどは大企業であったが、
結局私は大企業を選ばずベンチャー企業を選んだ。
10月1日の解禁日、私は先輩の会社へ行かずやめた会社へ行った。
しかし、その会社を私はたった一年で辞めてしまった。
私は一人で会社を設立した。
それが20年前の1986年3月のことである。
続く
1986年3月、24歳のとき、私は経った一年しかいなかった会社を辞めた。
明治大学政経学部を卒業して新入社員で入った会社だ。
大学4年の時の就職活動、
私はいろいろな会社を回った。
家電メーカ、コンピュータメーカ、銀行、リース会社、プラント、飛行機会社
自分が何に向いているのかなかなかつかめない時期だった。
何かの研究職に付きたいと思ってた。
でも私が出たのは大学の政経学部、経済学科
人事担当者は私のやりたいことを怪訝な顔をして聞いた。
東芝では
自ら電気の発生する物質でICチップを作れば人工知能が出来ると
と人事担当者に説明した。
人事担当者は怪訝な顔をしてたのを覚えてる。
NECでは
自ら名づけた「感温電池」を作りたいといった。
光を当てて電気を起こす物質があるのだから、温度を当てて電機を出す物質もあるのではないかと。
二度と電話連絡は来なかった。
オリックスでは
何回かの面接まで駆け上ったが
面接官に「うちの会社どう思いますか?」と聞かれて
「リスクの大きい会社だと思います」と答えて落とされた。
銀行は
2~3行、面接を受けに行ったが
自分の両親が直前に離婚していたのでだめだと思い再面接には行かなかった。
当時入りたいと思っていた京セラは
母親から突然電話が掛かってきて、
大阪の代議士、原健の紹介状を貰ったので全日空へ面接に行けと
京セラの2次面接と同じ日、同じ時刻だった。
母親の顔もつぶせないので、泣く泣く霞ヶ関の全日空に面接に行った。
三人同時の面接で何か聞かれたが
行きたいと思ってる会社ではないので普通にしか答えられなかった。
面接の結果は、「元気がない」と、当然落とされた。
富士通のリクルート担当の先輩と会い
私のいろいろやりたいことを告げた。
コピー機のガラスの上に、パソコンのディスプレイをひっくり返して乗っけて
コピーを取ったら早くて静かな印刷が出来るんじゃないかと
その当時ドットプリンタしかなかった時期だった。
今から思えばレーザープリンタだった。
先輩は絶対に10/1のリクルート解禁日の午前中に来いといった。
私は10/1行かなかった。
その夜、電話が掛かってきて「なぜ来なかったんだ」と言われて
「行きたい会社があったのでそっちへ行きました。」と答えた。
「翌日でもいいから絶対来い」、と言われた。
他にも20社以上受けたと思う。
当時、NEC PC9801が出た手のころで、これからはPCの時代だと思った。
大学の3年の時、アルバイトをして、PC8801MRⅡというパソコンを買った。
8ビット機で5インチのフロッピー2DDが2基付いてた。
友達からゲームをコピーしたり、ワープロしたり
簡単なベーシックのプログラムも組んでみたりしてた。
大学の卒論は、ワープロで書いて出した。
ワープロはユーカラ、単漢字変換だった。
当時、明治大学でワープロでの卒論提出は初めてだった。
それを認めてくれたのは、近代経済学ゼミ、恩師水上先生の英断であった。
いくつもの企業を訪問する中で
私がコンピュータ系の企業に絞り込んでいったのも当然である。
そのほとんどは大企業であったが、
結局私は大企業を選ばずベンチャー企業を選んだ。
10月1日の解禁日、私は先輩の会社へ行かずやめた会社へ行った。
しかし、その会社を私はたった一年で辞めてしまった。
私は一人で会社を設立した。
それが20年前の1986年3月のことである。
続く
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- [2006/08/01 23:42]
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