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会社設立回想録9 (巣立ち、ビジコム誕生) 

20年目の独り言9 (巣立ち、ビジコム誕生) 

会社創業から社設立までの約2年弱(1988年)、
月2~3店舗のペースでシステムを導入するお店が増えていった。
それにも増して増えていったのが、導入してくれた店舗の要求事項であった。
当初のシステムはそこそこには使えるのだが、
機能的な不足面が出てきてるのは明らかだった。

私の仕事の大半は外での営業活動であったが
残る半分は、システムの打ち合わせ等に費やした。
システムの打ち合わせは主に相模原のオーゼットで行われた。
二週間に一度くらいのペースで私は車を走らせ、
都内から府中街道、町田街道を抜けて相模原に向かった。
毎回の打ち合わせ、議論は長時間に及び
深夜、都内に帰って来るケースも度々だった。
その甲斐もあってか、システムの変更も順調に進み
私とオーゼットの関係は順調に見えた。

ある日のこと、
私がいつものように相模原に行って打ち合わせを始めると、
オーゼット田川氏のほうから、突然話を切り出された。

「システムの仕切りの値上げをしたい・・」、と

私の頭は混乱した。
今までオーゼットの販社だと思って活動してきた。
そのため、オーゼット販売の社名で会社を設立した。

私が個人で営業をしてることとしてみれば、
確かに見た目の取り分は多いように見えた。
しかし、その時はもう一人ではなく、部下も経理の事務員もいた。
事務所も住居兼から、独立したものに切り替えた。
すべての販売計画は、ある程度の利益が取れることから計画されていた。

一番大きく欠如してたのが、広告に対する概念である。
私は販売した利益を、必要な経費を除いてすべてを広告費に当てた。
小さな会社には大きすぎる広告費ではあったが、
その経費のすべてをオーゼットからは否定された。
事務所も作り、従業員も雇い、儲けすぎと判断されたのである。

何度も話をしたが、最後に田川氏は言った。

「値上げに承諾できないのなら売らなくてもいい・・」

この言葉で、オーゼットとの関係は決定的となった。
それまで、仲間として助け合い、助けられながらやってきた。
オーゼットが無ければ、会社の出足は無かったと思われる。
その分、私は販売して、オーゼットにも利益を還元してきたつもりだった。

値上げに承諾できなければ、商品を卸さない。
値上げされたら、会社自体もうまくいかない。
商品を卸してもらえないと、商品も売れない。
それは、その商品しか売っていない会社にとっては致命的であった。

私はとうとうオーゼットとの関係を断念した。
どうにかして、打開策を探した。

幸いなことに
オーゼットは開発元といっても、システムを作ってるのは別な個人だった。
そのため、著作権はその開発者個人が持っていた。
厳密な流れは、個人からオーゼットに商品が卸され、
オーゼットから私の会社に商品が卸されていた。
オーゼットは一次代理店の扱いで私は二次の扱いであった。

私はオーゼットとの関係を断念し、その個人と交渉した。
その個人は、オーゼットを経由せず私に直接卸す分だけ卸値が上がった。
私は、個人と直接取引きすることで、オーゼット時代と同様の仕切りを確保した。

創業から2年間、私は一人で会社を作ってきたように見えるが、
大きな意味では、オーゼットの保護下で営業してきた。
商品の売り方から、リース会社、仕入先、いろいろなものを教わった。
オーゼットが無ければ創業は無かったものと思ってる。
しかしその会社を乗り越えないといけない時期にさしかかっていた。

1988年7月、会社を板橋区から豊島区南大塚に移転した。
それと同時に、
社名を「オーゼット販売株式会社」から「株式会社ビジコム」に変更した。
法人になってから9ヶ月目、ある意味での育ての親オーゼットからの巣立ちであった。


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