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会社設立回想録11 バブル崩壊前後 

20年目の独り言11 (バブル崩壊前後)

1989年6月にビデックスジャパンで発表したシステムは
残っていた帳票のプログラムを完成させ8月から販売を始めた。
新しいシステムの名前は「ビデオレンタルver3」
システムは順調に売れ、会社も売上を伸ばしていった。
1986年3月の創業から約3年ちょっと経っていた。

私は運がいいほうだった。
時はバブルの全盛期、世の中は好景気に沸き
レンタルビデオ業界は急成長した。

ビデオレンタル業界が急成長したのは理由がある。
企業が高収益を上げ高利益を出すと法人税が膨れ上がる。
そのまま法人税を払う企業も多かったが、
バブル当時はビデオレンタル店のオープンは大きな節税対策になった。

レンタルビデオ店をオープンすると数千万から1億円超かかる。
その費用には、建物や什器も含まれるが
その大半は、レンタルビデオテープである。
ビデオテープは貸し出すものであり在庫とは評価されず
消耗品費として経理処理されていた。

ビデオテープは高いものであっても20万円を超える商品は無く
ほぼ全商品が消耗品費として処理されていた。
そのため、企業がレンタルショップをオープンさせると
レンタルテープの数量によって数千万から1億円超の
経費として処理することが可能だった。
必要であれば、億単位のお店を何店舗もオープンする企業もあった。

しかも、レンタルビデオの需要もうなぎのぼりに増して
オープン後は店舗として売上を生んでくれる。
この当時から、CCC(ツタヤ)が企業のFCを急激に増やし、
当時のエスポ(現在のゲオ)も不動産収益を得て急成長しF1参戦してる。
バブル期の企業にとっては、レンタルショップは大きな魅力だった。

私が創業したのはバブル期の途中だったので
まだ運が良かったほうだが、少し残念なことがあった。
それは、もう少し早く事業を始められてたら
もっと楽に会社を運営できたであろうことである。

会社自体はやっと起動に乗ってきたような感じではあったが
毎年利益を上げるたびにかなりの税金を持っていかれる。
利益と言ってもそれは在庫であり、運転資金であり、
キャッシュとして存在しないのに払わなくてはいけない税金、
税金を払うために借り入れし、毎年のように頭を悩ませていた。
これがゼロから始めた会社の悩みでもあった。

その当時、すでに軌道に乗ってた会社があった。
アスキーの西氏、ソフトバンクの孫氏、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏
私よりちょうど5~6年上の世代である。
彼らは私より5~6年早く事業を起し
パソコンとバブルの成長にうまく乗り急成長していった。

よく考えてみると、この世代による格差は大きい。
私はバブルの最後のバスにやっと乗れた感じではあったが、
バブルの崩壊と同時にすぐにバスから降ろされた。
最初の頃にバスに乗った人たちは遥か遠くに行ってしまった。
私以降、1990年の不動産融資規制後のバブル崩壊以降の世代は
バブル崩壊でバスにさえ乗れていない。

私は1989年、都内に3800万円で2LDKのマンションを買った。
今から考えると、まだ28歳で独身生活、賃貸でも十分。
なにもバブル崩壊の前年度にマンションを買わなくても良かったのにと思うが、
欲しくなくても買わざる終えなかった。

たとえば、会社の事業資金融資、
保証人の欄に持ち家、賃貸、を記載する欄がある。
もし、保証人の欄で賃貸にとマルをつけると、融資が困難だった。
コピー機のリースでさえ、賃貸にマルをつけると通らない。
その当時は、何をするにも不動産担保主義で
借金してでも何らかの不動産を持ってないと会社の経営は困難だった。

買ったマンションは、買った翌年度は4500万円まで上がり
翌々年度以降バブル崩壊後は年々下がり続け
最後は2000年の引越し時に1700万で売却した。
これもあと4~5年早ければ、もっと安く買えただろうし
そうすれば、大きな損をすることも無かった。
ただ、その時期はまだ学生、クレジットカード自体が出来ない時期だった。

バブルの前後でかなり出遅れ振り回された感じではあったが
どうにか私の会社は、緩やかな成長を続けていった。

1990年9月、私は新大阪駅に関西営業所を開設した。
大阪の事務所は営業マン一人、事務員一人の小さなものだった。
それでも、西日本に販売拠点をもてたことは、
今後の成長にうまくつながって行った。


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