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3.11大震災より10日目 

3.11大震災より10日目

2011年3月11日に起きた東日本大震災、
あまりのも大きな被害のため、言葉に詰まる。

地震、および津波にのために大変多くの方々が犠牲となり、
そして今も大変多くの方々が被災地で苦労をされており、
心から追悼、そしてお見舞いを申し上げたいと思う。
そしてこれからも続く福島原発の事故は、
これからも多くの人々を苦しめると思うと無念に思う。

今回の震災地域、福島、宮城、青森、茨城、千葉湾岸で被災したビジコムのPOSシステムを使っていただいていたお店は数百店舗あるが、津波による沿岸被災地域に限定すると想定で21店舗、そのうちお店が流されたと連絡をくれたお店が5店舗ほどである。
連絡をいただいたお店はお店は流されているものの人命は無事であることが確認取れて少しホッとしたが、連絡の無いお店は、あえて私どもに連絡をする暇も無いのかもしれないが心配である。

なかには千葉県旭市の薬局のように津波の被害はうけたが、お店は残っており再開したいとの連絡を受けた。再開の際は、私どもでできる限りの支援をしたいと思っている。

幸い、当社は多少の什器の破損や、通勤難民で通勤困難な社員はいるものの、先週一週間あまりにも普通なのでびっくりしている。
普段1時間でこれる社員が3時間かかって来たり、サポートも普段どおりにできたり、開発メンバーも全員が出勤し予定通りにスケジュールをこなしている。営業は大阪支店は何事も無く営業活動をしているが、さすがに東京営業はすでに予定のあったスケジュールをこなすだけで、こちらからは連絡を取りづらく手持ちぶたさのようである。

他社からは、お見舞いの広告記事を載せてそれを義援金として寄付しませんか?とか、いろいろな提案を受けたりしている。
しかし義援金という目的の定まらないお金よりも、当社のシステムを利用されている普段から接してお世話になっている被害にあわれた身内のお店様に直接何らかの支援をさせていただきたいと思っている。

この一週間ちょっと、あまりの事態の急変に、ブログも展示会リテールテックの明るい記事を最後にするのではなく、早く更新しなくてはと思ってはいたが、事態のめまぐるしい展開に会社も二転三転せざる終えなくなっている。

地震→津波→原発事故→放射能漏れ→無計画停電→交通手段運休→社員の安全確保、等々

地震や津波による災害はそれだけでも尋常ではない規模であるのに、そこに原発事故が重なるととんでもない。今はまだあまり語るべきではないのかもしれないが、これによりまた多くの人々の経済基盤が失われ、放射能による汚染、人命の危機が起きると思うといたたまれない気がする。そしてテレビや新聞で繰り返される「健康には問題の無いレベルです」何を根拠にそういう言葉を発しているのかわからないが、ちゃんとした情報の提供をしない大本営発表化している。

山口県の父親に電話をすると、安直な答えが返ってくる「そんなに心配することは無い、もうだいぶ収まったんじゃないの?」田舎はNHKニュースと朝日新聞だけの情報源でなにも根拠のある情報が得られない。今は正確な情報を与えて個人が判断すべきなのにその情報すら与えられない。

幸い、東京は多少ガソリンスタンドに車が並んだり、一時期的に水やカップラーメンが店頭から消えたりするが、多少困る程度で貧困ではない。しかし今後とも計画停電や通勤難民が出続け、そして緩やかな放射能汚染が蔓延すれば、東京自体も緩やかにメルトダウンせざる終えない環境になっていく気がしている。

私は常々言い続けていることではあるが、他人の支援するにはまず自分たちが健全でなければ何もできない。企業が通勤難民や無計画停電で経済活動を止められててしまえば、何も支援することができなくなる。そのため、一歩一歩着実に何をするべきなのかを考えている。

私事ではあるが、株式会社ビジコムは1986年3月21日が創業日で今日で25年目を迎えた。
本来であればこのこともちゃんとしたブログにしたためたいとも思っていたが、この時勢、追記程度に留めておきたいと思う。

今は維新、戦後に匹敵する変動期、私自身の25年目の節目にいろいろと考えなくてはいけない時期に差し掛かってるんだと実感している。


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『2011.03.11の記録』

私自身は3.11の日、東京ビックサイトで展示会リテールテックの4日目の最終日、前日までの3日間、お客様の反応がよかったため絶好調で、そして4日目の3時頃に起きた地震で一気に様相が変わった。

長く大きく揺れた地震はビックサイトの高い天井から鉄板が落ち、即席作りの展示機材は幸い大きく崩れることはなかったもののかなり揺れた。
二度目の大きな地震の後、展示会は開催中止となり、
津波の情報が入ってきたため、海辺のビックサイトは危ないと避難指示、何の情報も入らず、携帯のワンセグを見て震源は東北仙台沖、津波が押し寄せてることを知る。

しばらく、ビックサイトの2階に避難していたが、
すべての交通機関がとまってしまい、お台場は陸の孤島、
主催者から何の指示も出ず、機材をそのまま放置して帰るわけにも行かず、「人命優先、何かあれば機材は放置して逃げよ」との指示を出し撤収を始める。

会社も心配であったが携帯が通じず、唯一iphoneのスカイプのチャットにて連絡が取れ様子を知ることができた。会社は8階のため大きく長く揺れ二段重ねのガラスのラックが倒れ割れたとのこと、幸いそのガラスのラックが倒れた場所にいつも座っている社員はは展示会に来てたため難を逃れた。

二時間くらい経ったあと、会社の様子、津波の様子などの情報が集まり始め、不安に思い始めた女子社員たちがパニくりはじめた。泣き叫ぶ女子社員やすでに徒歩で逃げて連絡つかない女子社員、男性社員は会場で撤収作業をしていたが、女子社員だけでも早く引き上げさせたほうがいいということになり、展示会最終日のため車で来てた私は女子社員3名を乗せて会社に向かった。

ちなみに残った男性社員、十数名は一台の会社の車フィットと荷物を運ぶ2トンのレンタカーでビックサイトから引き上げた。交通機関が麻痺してたため徒歩で帰ってくるよりも適切な判断だと思うが、2トントラックは大渋滞に巻き込まれ約6時間も会社までにかかったという。

翌日開く予定であった東京、大阪合同の全社営業会議は地震直後に即中止した。そのため大阪から展示会に参加していたメンバーは翌日早めの新幹線で大阪に帰っていった。あのまま大阪メンバーが東京に取り残されるとそれはそれで心配が増えることになるので早めの帰郷で安心した。

7時ごろ私は脇道を抜けて順当に会社に戻ってきたが、社内はまだざわついていた。ガラスのラックが倒れてきたこと、かなり大きく波打ってビルが揺れたこと(船酔いのようになると)、すべての交通機関が止まっているため帰宅手段が無いこと。エレベータが止まっており会社の前の道路はすでに徒歩で帰宅する人たちで溢れていた。

すでに帰る手段を無くした社員もいたが、比較的近場に住んでいる社員(板橋、中野、練馬など)のために何度か車で江戸川橋から池袋、高田馬場へ送っていった。最初は池袋から少しでも外側に送っていこうと思っていたが、池袋だと山手線を越えるビックリガード、六つ又交差点が大渋滞しており、目白街道、新目白街道、高田馬場までもが大渋滞であった。そのため諦めて池袋にて社員をおろし会社に戻った。その社員たちはその後1~2時間ほどで徒歩で家に着いたという。

二度ほど社員を送り届けて夜の12時ごろ私も自宅に戻り会社に連絡を入れると、まだ2トントラックが会社に戻ってきていないという。あわててまた会社に戻ると夜中の一時ごろやっと会社に到着していた。


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コメント

はじめに

すべての
被災で犠牲になられた方
哀悼とともに生存されている
被災者と被災地の復興を
お祈りします。

東京での被害状況があまり
報じられていないので

想像していたよりも当日の会場は
大変な状況だったのですね。

報道では伝わらない会場の状況が
ありありと伝わってきました。

被災者がほぼいないとはいえ
交通機関・通信に多大な影響を
与えているので見直しが必要
な時期にさしかかっているので
しょうね。
  • [2011/03/24 14:28]
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  • ザ・パワドリ50
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