会社設立回想録10 (開発会社へ)
20年目の独り言10
株式会社ビジコムに社名を変え
南大塚に引っ越してきた事務所は23坪。
丸の内線の新大塚駅から徒歩1分の好立地にあった。
ワンルームのマンションから引っ越してきた荷物は
23坪の事務所の真ん中に机4つ
最初はあまりに広い空きスペースに驚いた。
仕入先をオーゼットから開発者個人に変えたものの
まだまだ解決しなくてはいけない問題は多かった。
一番大きな問題は、開発者個人の人間性であった。
どうにか商品の仕入れ先は確保したものの
直接取引きしたとたん、新しい問題に直面した。
私が脱サラ、創業して2年少し
システムの販売をすればするほど、お客の要望は増していった。
新規の顧客に営業するにしても、競合ライバルとの機能差に悩まされ
既存の顧客にしても新しい機能の追加を早期に求められた。
そのため、二年間オーゼットに通いつめて
システムの改良、新規開発の打ち合わせに努めてきた。
すでにその頃は、カシオや大手のライバル他社も参入しており
新しいシステムの開発、リリースは急務であった。
開発者個人が作る新しいシステムの開発は順調に進み、
評価も上々ですぐにでもバージョンアップできそうな勢いであった。
私は開発者個人に早急なリリースアップを要求したが、
開発者個人は私に一枚の新しい契約書文面を掲示した。
そこには、新しいバージョンソフトの仕切りの見直しが書かれてあった。
新しいソフトの契約は、オーゼットの要求してきた仕切りより条件が悪かった。
その条件は、私には到底飲むことは出来なかった。
オーゼットの山口氏の言った忠告の言葉が思い出された。
「あの人と直接やると、大変だよ・・。」
新しいバージョンのパッケージは、
プログラムしたのは彼かもしれないが、中身は私の意見の集約だった。
お店の意見や要望、解決策、アイデア、デザイン、
すべての情報は私から伝え、改良を依頼した。
私の意見が無ければ、ここまでの改良は出来なかったはずだ。
しかし、理屈上から言えば、プログラムした人間に著作権はある。
私は決心した。
現行パッケージを継続販売して、条件交渉を引き延ばそうと。
そして、その間に自社で新しいパッケージを開発しようと。
すぐに私は、開発者を募集した。
そして新しく増えたスペースは、3名の開発者が常駐するスペースとなった。
アイディア、そして何を開発するかはすべて私の頭の中にある。
時間とその開発費用さえあればいい。
約一年で、自社の新しいパッケージを開発しようと思っていた。
開発する一年間はドキドキであった。
会社で開発させていた時期システムは、
現行パッケージを売ったお金で開発させている。
もし、仮に開発していることがばれてしまったら
現行パッケージの出荷が止められるかもしれない。
そうすると、会社の運営も開発費の捻出も出来なくなり
会社は行き詰ってしまう。
この間一年は、必死で現行システムを売った。
それまでの倍以上売っていたのかもしれない。
システムの営業をしながら、社内開発の打ち合わせも行った。
開発者個人は、幸いかな相模原で開発していたので、
新しい事務所には一度も来ることは無かった。
23坪の狭い事務所に来られれば、開発は隠しようが無かった。
現行システムの打ち合わせが必要な場合は、
率先して私のほうから相模原に出向いていくことにした。
ある程度開発の見通しがたってきた時、私はひとつの決断をした。
翌年の6月(1989年)、レンタル什器、システムを集めた展示会として
ビデックスジャパンがサンシャインの文化会館で開かれる。
その展示会に出展し、新しいシステムのお披露目にしようと。
新しい事務所に引っ越してきて一年弱
開発者を募集して開発するまでに10ヶ月程度しかなかった。
その展示会に間に合うか間に合わないかはギリギリである。
しかし、それ以上開発を隠し通せるものでもなく、
現行システムをこれ以上販売し続けるにも限界があった。
1989年6月、
多少プログラム開発の間に合わない帳票もあったが
予定どうりビデックスジャパンに出展し、新しいシステムを発表した。
新しいシステムは、機能、スピード、使い勝手
どれをとっても他社には負けておらず評判も上々であった。
それと同時に、
私は開発者個人に代理店の解除通知を送った。
この一年、すでに出来上がってる改善システムを目の前にしながら
お客様に機能改善の苦情を言われ続け謝り続けてきた。
また、開発者個人との打ち合わせでも、悟られないよう
気を使いながら、不満も封じ込めてきた。
私自身、この一年間は気の抜けない時間で、限界であった。
この解除通知は、私自身のけじめでもあった。
いいものを作って、お客様にいいものを提供したいだけなのに、
それまでは、利害関係で苦労することが多かった。
それも自社で開発することにより、
開発者に気を使うのではなく、お客様に目を向けたシステム開発が出来るようになった。
自社で開発して自社で販売する体制が出来上がった。
ここに、ビジコムは販売会社から開発会社に脱皮した。
消費者の視点に立つ会社が出来上がった。
株式会社ビジコムに社名を変え
南大塚に引っ越してきた事務所は23坪。
丸の内線の新大塚駅から徒歩1分の好立地にあった。
ワンルームのマンションから引っ越してきた荷物は
23坪の事務所の真ん中に机4つ
最初はあまりに広い空きスペースに驚いた。
仕入先をオーゼットから開発者個人に変えたものの
まだまだ解決しなくてはいけない問題は多かった。
一番大きな問題は、開発者個人の人間性であった。
どうにか商品の仕入れ先は確保したものの
直接取引きしたとたん、新しい問題に直面した。
私が脱サラ、創業して2年少し
システムの販売をすればするほど、お客の要望は増していった。
新規の顧客に営業するにしても、競合ライバルとの機能差に悩まされ
既存の顧客にしても新しい機能の追加を早期に求められた。
そのため、二年間オーゼットに通いつめて
システムの改良、新規開発の打ち合わせに努めてきた。
すでにその頃は、カシオや大手のライバル他社も参入しており
新しいシステムの開発、リリースは急務であった。
開発者個人が作る新しいシステムの開発は順調に進み、
評価も上々ですぐにでもバージョンアップできそうな勢いであった。
私は開発者個人に早急なリリースアップを要求したが、
開発者個人は私に一枚の新しい契約書文面を掲示した。
そこには、新しいバージョンソフトの仕切りの見直しが書かれてあった。
新しいソフトの契約は、オーゼットの要求してきた仕切りより条件が悪かった。
その条件は、私には到底飲むことは出来なかった。
オーゼットの山口氏の言った忠告の言葉が思い出された。
「あの人と直接やると、大変だよ・・。」
新しいバージョンのパッケージは、
プログラムしたのは彼かもしれないが、中身は私の意見の集約だった。
お店の意見や要望、解決策、アイデア、デザイン、
すべての情報は私から伝え、改良を依頼した。
私の意見が無ければ、ここまでの改良は出来なかったはずだ。
しかし、理屈上から言えば、プログラムした人間に著作権はある。
私は決心した。
現行パッケージを継続販売して、条件交渉を引き延ばそうと。
そして、その間に自社で新しいパッケージを開発しようと。
すぐに私は、開発者を募集した。
そして新しく増えたスペースは、3名の開発者が常駐するスペースとなった。
アイディア、そして何を開発するかはすべて私の頭の中にある。
時間とその開発費用さえあればいい。
約一年で、自社の新しいパッケージを開発しようと思っていた。
開発する一年間はドキドキであった。
会社で開発させていた時期システムは、
現行パッケージを売ったお金で開発させている。
もし、仮に開発していることがばれてしまったら
現行パッケージの出荷が止められるかもしれない。
そうすると、会社の運営も開発費の捻出も出来なくなり
会社は行き詰ってしまう。
この間一年は、必死で現行システムを売った。
それまでの倍以上売っていたのかもしれない。
システムの営業をしながら、社内開発の打ち合わせも行った。
開発者個人は、幸いかな相模原で開発していたので、
新しい事務所には一度も来ることは無かった。
23坪の狭い事務所に来られれば、開発は隠しようが無かった。
現行システムの打ち合わせが必要な場合は、
率先して私のほうから相模原に出向いていくことにした。
ある程度開発の見通しがたってきた時、私はひとつの決断をした。
翌年の6月(1989年)、レンタル什器、システムを集めた展示会として
ビデックスジャパンがサンシャインの文化会館で開かれる。
その展示会に出展し、新しいシステムのお披露目にしようと。
新しい事務所に引っ越してきて一年弱
開発者を募集して開発するまでに10ヶ月程度しかなかった。
その展示会に間に合うか間に合わないかはギリギリである。
しかし、それ以上開発を隠し通せるものでもなく、
現行システムをこれ以上販売し続けるにも限界があった。
1989年6月、
多少プログラム開発の間に合わない帳票もあったが
予定どうりビデックスジャパンに出展し、新しいシステムを発表した。
新しいシステムは、機能、スピード、使い勝手
どれをとっても他社には負けておらず評判も上々であった。
それと同時に、
私は開発者個人に代理店の解除通知を送った。
この一年、すでに出来上がってる改善システムを目の前にしながら
お客様に機能改善の苦情を言われ続け謝り続けてきた。
また、開発者個人との打ち合わせでも、悟られないよう
気を使いながら、不満も封じ込めてきた。
私自身、この一年間は気の抜けない時間で、限界であった。
この解除通知は、私自身のけじめでもあった。
いいものを作って、お客様にいいものを提供したいだけなのに、
それまでは、利害関係で苦労することが多かった。
それも自社で開発することにより、
開発者に気を使うのではなく、お客様に目を向けたシステム開発が出来るようになった。
自社で開発して自社で販売する体制が出来上がった。
ここに、ビジコムは販売会社から開発会社に脱皮した。
消費者の視点に立つ会社が出来上がった。
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- [2006/08/15 00:12]
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